マネージャーのゴールとは?

昨日の延長線上の今日

マネージャー業ももう6年となる。

はっきり言って目新しいことは何もない。

上司が変わったり、チーム(メンバー)が変わったりはあるけれど、それだって昨日の延長線上であって、特に動じることはない。

必要だと思うことを淡々と行うだけだ。

駆け出しの頃に比べて管理する人数も増えたけれど、少人数のチームよりは多人数のチームの方が1人当たりの「濃さ」は薄いので、やり易いことこの上ない。

僕のように人間関係が面倒くさいと思うようなタイプの人間には、あまりにも人間関係が濃いと色々と厄介なことにも巻き込まれるので、それがない(少ない)現状は快適ですらある。

時折上司が言ってくる無理難題も、ある程度の解法は見えているので、「めんどくせえな…」と呟きながらも、期待以上のものを返せるようになった。

結果を出していれば、それ以上踏み込まれることもないし。

貰えるモノもある程度貰えているし、特に生活に不自由もない。

そういう意味では僕は現状に満足している、と言えるのだろう。

では、この先どうするのか?

どこを目指していくのか?

それが今日の話となる。

人の心を捨ててまで偉くなりたいか?

それこそマネージャーに成り立ての頃には、多少なりとも上昇志向みたいなものがあって、組織内における最短距離でマネージャーになった僕としては、どんどん上を目指していくという選択肢があったし、実際にそんなことが頭をもたげたりした。

ただその間に、会社の方針は大きく変わり、僕が慕っていた人たちは会社を去ることが多くなっていった。

残された上司達に尊敬できる人はいなかった。

それが会社の望む「人財たち」であるようであった。

確かに能力は高いのだろう。

仕事をやっているように見せることにかけては天下一品なのだろう。

でも、人間的にどうしても好きになれない人が多いし、僕がそこに到達する為には、「そういう人」にならなければならないようだった。

会社に対する違和感はどんどん大きくなっていった。

どうやら、成果を出すことよりも、いかに組織内で上手に立ち回るかの方が重要で、これ以上の階段を昇っていく為には(人の心を捨てて)一線を越えなければならない、ということのようだ。

クソどもを黙らせる為には数字が必要だ

こんなことは別に当社だけのことではなく、ある一定の組織であれば「当たり前」の話なのだろう。

今更何をウブいことを言っているのか?

僕だってわかってはいる。

でも腹落ちできないのだ。

僕は営業担当者時代から、周りが言う「安易な道」を通らずに生き残ってきたという自負がある。

客を痛めつけずに、自分なりの信念を持って、それでも高い成果を出し続けてきた。

彼らからすれば「そんな信念捨ててしまえば楽になれるのに」ということなのかもしれないけれど、僕にはどうしてもできなかったのだ。

単純に甘いだけなのだろう。

わかってはいる。

でも、だからこそ、彼らよりも高い成果に拘ってきたわけだ。

ただの青臭い戯言ではなくて、他者にわかりやすく証明するためには成果が必要となる。

黙らせる為には数字(エビデンス)が必要となる。

その気持ちは今も変わらない。

自己満足に過ぎない。わかっている。

僕はマネージャーとしても、高い成果を出し続けてきた。

担当者時代に比べて、立場上大人しくしていなくてはならない状況は確かにあるけれど、それでも言いたいことを言いながら、結果を出してきている。

でも、それが何だというのか?

ただの自己満足に過ぎないのではないのか?

遅まきながら、それがわかってきた。

組織内での上昇に意味を見出せない

ある種類の人から言えば、僕の言っていることは「負け惜しみ」みたいに映るのかもしれない。

出世したもん勝ち、みたいな考え方があることもよくわかっている。

それができないのは結局のところ能力がないのでは? という問いは、誰よりも自分がわかっているつもりだ。

それでも、だ。

僕はこのやり方で成果を出していく。

別に意固地になっているわけではなく、時代が変わりつつあることを体感しているからだ。

パラダイムシフト、とまでは言えないのかもしれないけれど、旧時代の日本が変わり始めているように感じている。

新しい世代には、旧来のやり方というのはとても古臭く、ナンセンスに映るようだ。

その中での上昇に価値を見出すことができないそのやり方による仕事に意味を見出すことができない、というのは彼らと話していて出てくる共通の話題だ。

アンビバレントな人達に背を向けて

仕事に意味を求める、というのは、旧世代からしたら青臭い戯言、空虚な理想論、のように映るのかもしれない。

でも、僕からしたら、「それなら何で働いているのか?」ということなのだ。

彼らは自分の上昇によって承認欲求を満たしながら、その仕事をしている自分や会社を軽蔑していたりする。

自分のしている仕事は「金を得る為だ」と割り切っているフリをして、割り切れないままでいる。

そんなアンビバレントな状態を断ち切る勇気はなく、惰性による仕事を続けている。

僕はそれを変えたいと思っている。

僕は自分のやり方で、若い世代の支持を得ながら、旧世代よりも高い成果を出していく。

それも圧倒的な差をつけて。

理解できない者はそれで構わない。

そこに地位や名誉がなくても構わない。

グアルディオラやクロップみたいな、やりたいサッカーをやりながらCLが取れるように、これからも頑張っていくつもりだ。

それがゴールなのかはわからないけれど。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

小さい頃からもそうでしたが、僕はアウトサイダーなのだといつも思います。

そしてそういう生き方が好きなのだろうと。

自分がアウトサイダーであることを心地よいと思う心性(ナルシシズム)に自分でも嫌気がさしますが、これ以外の生き方ができないので、もう諦めるしかありません。

でも不思議なことに、僕のアウトサイダー感を面白がってくれる人が世の中には一定数いて、それも年上の人達がたくさんいて、僕は何とか仕事を続けられてきました。

そういう人達が会社の中で不遇な目に合っていくのを目の当たりにしてきたことで、僕は「仕事って何なのだろう?」「偉くなって、使われるだけこき使われて、何の意味があるのだろう?」と思春期の少年のように思ってしまっているわけです。

そうは言っても、給料も貰っている訳で、それ相応の仕事はしなくてはならない。

でもそれ以上のことは別問題である。

最近はそんな風に考えています。

お付き合い頂けたら幸いです。