否認の構造

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意識的な記憶喪失行為

「問題があるのに、あたかも問題が存在していないかのように振舞うこと」をこの論考の中では「否認の構造化」と名付けることにする。

「え? 何を言っちゃってるんですか?(そんなもの初めから存在していないですよ?)」というのがその具体的かつ典型的な反応の1つである。

僕はパラレルワールドに紛れ込んだ住人のように、狐につままれた人のように、そこに呆然と立ちすくむことになる。

意識的な記憶喪失行為、と言い換えてもいい。

とにかく都合の悪いことについては、そもそも元から存在していなかったのだ、という態度を取ること、それによって責任の所在を不確かにしようとすること、組織内で働いていると、そんな場面に立ち会うことが多い。

それでも何とかしてそれを蒸し返そうとすると、まずは「僕たちは同じ共同体に住む家族(ファミリー)じゃないですか?」的な懐柔がまず行われる。

次に「あなたも共犯者じゃないですか?」という罪悪感喚起的アプローチが行われる。

それでも意を曲げないと、態度が急に硬化して、「本当にいいんですか? ひどいことになりますよ?」ということを仄めかしてくる。

しまいには脅迫的な様相を呈してくる。

かくして、問題は問題のまま残置される。

誰もそれを触ることができない、アンタッチャブルなものとなる。

禁忌として、タブーとして、意識的に集団的に忘却される。

当然ながら、何の改善もなされていないので、またいつしかその問題が露見することになる。

以下(エンドレスに)繰り返し。

今日はそんな話をしていく。

「いつまでも幸せに暮らしました」なんてない

「それを言っちゃあおしまいよ」的な話、パンドラの箱を開けるような話、というのはしてはいけないのだろうか?

僕はそれがずっとわからないままでいる。

確かにそこに手を突っ込むことは勇気がいる。

様々な関係者がいて、その人達にも迷惑をかけることになる。

忘れたい記憶を呼び起こすこと。

それはトラウマを喚起することにも似ていて、できれば触れないままでいたい種類のものだ。

おとぎ話のように、「いつまでも幸せに暮らしました」と言えたらどんなに良いだろう。

でも、そんなことは不可能なのだ。

僕たちはリアルで残酷な現実に生きているから。

いつか、必ず、追い付かれる

マーフィーの法則ではないが、問題というものは一番起きて欲しくない時に限って起こるものだ。

いつか、必ず、追い付かれる。

知らないフリをし続ける訳にはいかない。

だって、僕たちは知っているから。

そこに問題があることに気付いているから。

裸の王様

裸の王様という童話の中で、「王様は裸だ!」と叫ぶのは、一人の子供であるとされている。

それはたぶん大人ではいけないのだ。

大人というのは、王様が裸であることに気付いていたとしても、それを否認しなければならないのだ。

逆説的には、そういう振る舞いをできる人を大人と呼ぶ、ということになるのだろう。

そういう意味では、これは日本社会特有の現象ではないのかもしれない。

いや、というより、童話の中で大人がそれを言い出さないのは、自分が愚か者であることを露見させたくないからであって、日本社会における意識的かつ集団共犯的な忘却とは異なるものだ。

あくまでも、自分が恥をかきたくない、という単純な理由により言い出せないのと、共同幻想的なものにより指摘できない、ということは大きく異なる。

家族的観念と共犯意識

僕たちの思考は捻じれている。

皆は王様が裸であることがわかっている、それをみんながわかっていることもわかっている、でも意識的に王様は裸ではないことにしようとする、その事実すら存在していないかのように振舞う、そして集団的に忘却する。

そこにある動機は恥ではない。

家族的観念共犯意識だ。

僕たちは日本という国家における集団的な家族の一員で、その罪はみんな一緒である、その身内の恥をさらすことをするな、敢えてそれを言明するな、という観念がその背景にあるのだ。

それを言い出すものは、村落共同体から外されて、村八分とされる。

集団的に抹殺される。

元から存在しなかったものとされる。

日常は回復し、僕たちはまた忘却したまま、普段通りの生活を行う。

でも、本当は、気付いているのだ。

そこに問題があることを、それを指摘した人が抹殺されたことを。

見て見ぬふりを続けること。

それがたぶん僕たちがこの30年停滞している原因なのだろう。

意識的な忘却

疑似的家族共同体同調圧力

和を乱すこと、疎外されることへの極端な恐怖心。

僕たちが上手くいかないのは、上手くいかない原因を意識的に忘却しようとしているからだ。

本当はみんな気付いているんだろう?

でもそれを言っちゃいけないという暗黙の了解があるからだろう?

忘れたことにしよう。

なかったことにしよう。

そうじゃないと、自分の尊厳が危うくなるから?

存在意義が足元から揺らいでしまうから?

手をつけることから始めよう

僕は旧態依然とした組織にウンザリしている。

旧世代の戯言に飽き飽きしている。

本音ベースで話ができず停滞したままの日本社会に辟易している。

返り血を浴びてもいい。

泥だらけになっても構わない。

そこに手をつけよう。

そこから始めよう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

問題を認める、ということ自体が悪である、という観念がずっと理解できないでいます。

「そこに問題なんてないよ? どうしたんだい?」という振る舞いが溢れている社会の中においては、問題を指摘することはタブーであるようです。

敗戦から76年、バブル崩壊から30年、原発事故から10年、僕たちは意識的な記憶喪失行為を続けています。

そうやってこれからも停滞し続けていくのでしょうか?

きっとそうなのでしょう。

僕はおかしな自分のまま、少しでもいい仕事をしていきたいと思っています。

共感頂けたら幸いです。