決められないと動けない人

思考停止が常態化している人達

マネージャーになって日々感じるのが、「自分の頭で考えられない人が一定数いる」ということだ。

一定数、なんてものではないかもしれない。

かなり多くの割合、でいる。

たぶん教育制度が原因なのだろうけれど、いい大人であっても、「どうしたらいいでしょうか?」と高い頻度で聞いてくるので、こちらもうんざりしてしまう。

もちろん組織に属している以上、上司に判断を問う、ということはあって当然ではあるが、「丸投げ」状態で、自分の意思を全く介在させないで、言ってくるという状態(そしてそれを不思議なことだとは全く思っていない)が僕には理解できない。

思考停止、が常態化している人達。

それを異常だと思わない人達。

今日はそんなテーマで話をしていく。

「私」があるからオリジナリティがある

オリジナリティには「私」が必要だ。

「私」が介在するからオリジナリティが立ち上がる、と言い換えてもいい。

逆説的には、「私」がなければ、その人がそこにいる意味はない。

AIで構わない。

こういう考え方をする僕の方が異常なのだろうか?

まあきっとそうなのだろう。

私が存在しないと議論は成り立たない

この種の人達の話法として(たぶんもうそれが癖になってしまっているのだろうが)、「事象だけを並列に並べる(自分の意見はなし)→どうしたらいいでしょうか?」というものがある。

僕はこう話される度に、いつも「ん?」と思う。

「お前はどう思うのだ?」と。

「私」が混ぜ込まれていないと、「議論」は成り立たない。

そこには「相手」は存在せず、「僕」だけが存在することになる。

不思議なのは、この問いに対して僕が何らかの意見を言った時の反応である。

その反応は、「意見」ではなく、「事実」に留まるものだ。

上手く伝わっているだろうか?

僕の意見に相違する「事実」「反証」をまた平板に並べる。

でもそこに彼の「意見」や「考え」はない。

だから議論が発展していかない。

一方的に僕が「意見」を述べ、それと異なる「事実」が並べられていく。

そしていつしか入口に戻ってくる。

僕はいつも思う。

「この時間は何なのだ?」と。

意見と事実は違う

判断、というのは「ポジションを取ること」だと僕は考えている。

もちろん「ポジションを取る」と「失うもの」がある。

でも、その失うものと、判断によって得るものを考量して、得るものの方が大きいと思ったからそのポジションを取る訳だ。

それに対して、失うものをただ並べられても、「そんなことはわかっているよ」となるだけなのだ。

というか、「どうしたらいいでしょうか?」というのは、判断を求めているはずなのに、それを受け入れないなら、僕に聞く意味とは何なのだろうか、と思ってしまう。

彼の意見がそこにあれば話は別なのだけれど、自分の立場を表明することなしに、中立的な状態から意見する、ということが当然の態度である、というのが僕にはどうしても理解できない。

不毛な時間に思えてならない。

リスクを取らなければリターンはない。

そのリスクをマネージャーに全て押し付けて、リターンを得ようとする心性が僕には理解できないし、全く共感できない。

意見具申が反論と捉えられてしまう社会風土

「意見を言う」ということは、「判断を行う」ということは、「反対者を生む行為」である。

それを恐れて、常に中立の状態に留まろうとする狡さに、軽蔑すらしてしまう。

でもこういう人はとても多い。

だからこそ日本社会は停滞しているのだろう、と(風呂敷を広げるようだが)思ってしまう。

これは「意見具申」が「反論」と捉えられてしまう社会風土があるからなのだろう。

僕は全く思わないけれど、「上司に意見する」ということに対して過剰に抑制的であることが、オリジナリティを生まない要因になっているような気がする。

アイディアがグルーヴしていくことがない。

声明が空間に反響するだけ

そりゃ仕事が面白くないだろうな、と僕は思う。

過剰に正解を求める社会の反作用

でも、こういう考え方が伝わるとは全く思えないのだ。

たぶんいつまでも僕たちは分かり合えない

その成れの果てとしてマイクロマネジメントがあるのだろうけれど、マイクロマネジメントを毛嫌いしている僕でさえ、これはある種仕方ないことなのかもしれない、と思うことがある。

何を言っても反応がないし、意見も出ないし、ただひたすらに「指示を待っている」人が一定数いるからだ。

それこそ箸の上げ下ろしまで指示をしてもらわなければ動けない人、というのが(冗談のようだが)存在する。

過剰に正解を求める社会の反作用なのだろうか。

僕にはわからない。

嘲笑と失笑と

間違っていても、別に構わないじゃないか。

それは意見だ。

自分の意思だ。

それがなければ、存在する意味がない。

だったら僕はもっと従順で、能力の高いAIと仕事がしたい。

雑味たっぷりの、馬鹿みたいな意見が僕は欲しいのだ。

僕が常に正しいなんてことはないのだ。

議論はその間に存在するのだ。

そうやってアイディアは面白くなっていく。

間違ったことを言うと笑われる教室?

嘲笑される社会?

黙って下を向いて時間をやり過ごすだけの会議?

素晴らしき日本社会。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

思考停止が常態化している人達とは議論ができません。

それは彼らに自分が思考停止をしているという自覚がないからです。

少し前に「AIが人間の仕事を奪う」という議論が盛んにありましたが、もしこういう人達が社会の大勢を占めるのであれば、AIの方がいいな、と僕は思ってしまいます。

ポジションを取らずに、茶化したり、斜めに物事を見たりすることが、相手より優位に立つ為に効果的だ、と思っている人はAIによって簡単に代替されていくのでしょう。

自分の頭で考えられた意見というのは、ある種の幼さを帯びているものですが、そこには野性味の力強さがあります。

それを大人ぶって「ちょけてる」ことは、全然大人の振る舞いではありません。

どんどんバカみたいなことを言っていきましょう。

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