ナイスガイ(とそれを受け入れる社会)は最強

Photo by Mick Haupt on Unsplash

足を引っ張られそうなものなのに

コロナで鬱屈とした心には大谷翔平選手の活躍は慈雨のように染みわたってくる。

僕自身は野球のプレー経験がないので、何がどのくらい凄いのか、というのは正直よくわからない。

ただ、室伏広治を見ている時のような、圧倒的な身体能力みたいなものくらいは感じることができるし、それが他の選手とは比べ物にならないレベルであることはわかる。

でも今日のテーマはそうではない。

(あのくらい圧倒的な成績を残しながら)なぜ足を引っ張られないのか、ということだ。

なぜ妬みや嫉みを超越した領域に立てるのか、ということだ。

結論としては、ナイスガイ(とそれを受け入れる社会)は最強、ということになる。

マネジメントに上手く着地できるか心配ではあるけれど、取り敢えず書いていく。

目立つと潰される

ビジネスにおいても、圧倒的な成績を残す人には必ずと言っていいほど、敵が生まれる。

そこには嫉妬という感情があるからだ。

この嫉妬というのは厄介なシロモノで、同僚だけでなく、明らかに競争相手ではない上司であったり、他部署の社員であったり、色々なところから生じてくる。

自分では全然意識していなくても、勝手に嫉妬されてしまう、敵として捉えられてしまう、ということがかなりの頻度で起こる。

これにはライバルを潰すとか、若い芽を摘むとか、いろんな言い方がある。

ましてや大谷選手の場合は、二刀流という(現代野球では)前代未聞のことをMLBの舞台でやっている訳だ。

やっかみが生じない訳がない。

たとえ本人の為を思って言っていても

僕が把握している限りでは、この二刀流というスタンスに対して、懐疑的な人はNPBにおいてもMLBにおいても、たくさんいたと思う。

曰く成功しない、とか、打者に専念した方がいい、とか。

そこにはもちろん本当に本人のことを考えて言っている場合もあるのだろうけれど、根底には嫉妬の感情があるのではないか、と性格の悪い僕は考えてしまうのだ。

新しい試み、というのは兎角叩かれがちだ。

でも彼はパフォーマンスによってそういう人達を捻じ伏せてきた。

そしてそういう人達を虜にしてしまっている。

圧倒的な成績という要因だけではなくて

レイシズムがこれだけ日常化している現在において、それは正に偉業という他はない。

それは彼が残している「圧倒的な成績」という要因だけでは説明できないだろう。

もし彼が「いけ好かない野郎」であれば、こうはなっていないはずだ。

そこに僕は凄みを感じる。

そしてそうならなければならないな、そうなりたいな、と身が引き締まる思いになる。

打算や卑屈さがないこと

実るほど頭が下がる稲穂かな、という言葉があるけれど、僕が大谷選手から感じるのは、それとは少し違うものだ。

そこには卑屈さみたいなものが一切ない。

「実るほど…」には打算というか、外連味というか、若干の嫌らしさが混じっているけれど、そういう「意図的なもの」が感じられない。

単純な人間性。

徳の高さ。

そういうものを感じる。

だからこそ彼はたくさんの人を魅了するのだろう。

だからこそ彼はこれだけの人に愛されるのだろう。

大雑把な楽観性

圧倒的なパフォーマンスを上げながら敵を作らない、ということが可能であることを彼は証明してくれている。

と同時に、それは日本社会では不可能であったのかもしれない、と僕は思うことになる。

アメリカ社会を礼賛するつもりは全くないし、どの社会にも功罪両面がある、というのはこの先の議論の前提として聞いて欲しい。

ただ、僕は「良いものは良い」ということを受け入れるアメリカ社会の「大雑把な楽観性」みたいなものが時に羨ましくなる。

ヨーロッパとも違う、乾いた空気みたいなものに、時に憧れを持ってしまう。

出過ぎた杭は打たれない?

同質性や、同調圧力が充満する社会にいる僕にとって、目立つということは負の側面を多分に含むものだ。

出る杭になる場合には、敵を作ることを覚悟しなければならない。

それに負けないくらい自己防衛的にならなければならない。

「いやいや、大谷選手くらいの圧倒的なパフォーマンスであれば、そうはならないんじゃない?」

出過ぎた杭は打たれない、とも言うし」

そんな声が聞こえてくる。

僕はそうは思わない。

間違った大人たちの振る舞い

あれくらいの圧倒的なパフォーマンスを上げても、あのくらいのナイスガイであっても、たぶん日本社会にいたままでは叩かれるのだ。

そこに僕たちが停滞したままである要因があるような気がしている。

彼がナイスガイであることは異論の余地がない。

でもナイスガイをナイスガイのまま受け入れる社会というのがアメリカの強さであるような気がしている。

翻って僕たちは、どこかしらの粗を探すことに血道を上げてばかりだ。

ネガティブな要因に目を向けてばかりだ。

嘲笑すること、失笑すること、それが大人の所作であると思っている人達ばかりの社会。

打ち上げられた打球が、日本特有の湿度によって失速して、センターフライになる社会。

それを嘲笑う社会。

変えることは不可能だろう。

でも、もしかしたら手の届く範囲であれば少しだけ変えることはできるかもしれない。

西海岸の乾いた空気みたいにはできなくても、除湿くらいはできるはずだ。

まずはそれを自分のチームから。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

自分が年を重ねてきて良いことの1つに、嫉妬心がなくなってきた、ということがあります。

僕は元来負けず嫌いな性格ではあるのですが、最近は好々爺のように、穏やかに才能のある若者を見守ることができているような気がしています。

それは自分に自信が出てきた、ということの裏返しなのかもしれません。

僕は若い人達が、その才能を潰されることなく、伸び伸びと活躍できるチームを作りたいと思っています。

取り敢えず一旦乗っかる、という気持ちを忘れずに、これからも働いていくつもりです。

面白いことを面白がっていきましょう。