パターナリズムとマネジメント

「お前の為だから」=面倒見の良いマネージャー?

あなたのマネジメントはパターナリズムに堕していないだろうか?

今日はそんな書き出しから文章を始めてみる。

パターナリズムとは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の意向を無視して(良かれと思って)、介入したり干渉したりすることを言う。

俗に言う「お前の為を思って」というヤツである。

一見、とても面倒見の良いマネージャーのように見える。

ただ僕はこういったやり方に懐疑的である。

善意ほど厄介なものはない。

あなたの善意は部下の自主性を奪っているかもしれない。

今日はそんなことを書いてみる。

マネージャーは部下を導かなければならない?

マネージャーとして数年間働いている自分から見ると、周りにいる多くのマネージャーはこのパターナリズム的な指導をしているように思われる。

そしてそれは善意から生じている。

師と弟子、主と従、先生と生徒、親と子、例えは何でもいいのだけれど、とにかくマネージャーとメンバーは上下関係であり、マネージャーは部下を導かなければならない、というように考えている人は多い。

これは日本社会の儒教的な考えが背景にあることが大きく影響しているのだろう。

部下が「指示待ち」であるのはあなたがそう望んでいるからだ

それならそれで構わない(文化的な側面は仕方がない)のだけれど、一方でこのタイプのマネージャーは次のような不満を言うので、僕は困惑することになるのだ。

「部下が能動的に動いてくれない」

「自分で判断ができず、何でも聞いてくる」

「指示待ち部下ばかりで困る」

などなど。

そりゃそうだろう、と僕は思う。

そのような関係性をあなたが強いているからだ、と僕は思う。

ただ、この手の人達はどうやらそのようには思わないようだ。

部下が指示待ちであるのは、あなたが指示を待つように仕向けているからである。

もう少し厳しい言い方をすると、仮に部下が自由な発想を持って、自発的に行動を始めたとしても、そのようなイレギュラーな動きをマネジメントするだけの力があなたにはないから、自分の手の届く範囲に留まっていて欲しい、とあなたが願っているからである。

善意を擬制するところに問題がある

パターナリズムが厄介なのは、自分の能力のなさを棚に上げて、「部下の為を思って」という擬制を伴うところにある、と僕は考えている。

先回りして効率的なやり方を教える(押し付ける)のも、自分の過去の成功体験を教える(押し付ける)のも、行動を指示する(制限する)のも、表面的には部下の育成の為である、という体裁を整えることができるところに、問題があるのだ。

もちろん、本当に部下の為を思っていることは間違いないだろう。

ただ、一方で暗黙的にきっとこのような考えがあるはずだ。

「勝手に行動されると困る」

「その行動の責任は自分が取らなければならないから」

そんなことはない、と反論する方には、こう申し上げたい。

「部下が自発的に行動することをあなたは本当に望んでいますか?」と。

日本に独創性がない原因はマネジメント層にある

日本の組織には独創性が乏しい、とか、部下が指示待ちである、とか、そんな話を聞くことは非常に多い。

ただ、その原因を作っているのはマネジメント層である。

僕はそんな風に考えている。

教えられることは陳腐なことばかり

その背景には失敗を極端に恐れる組織構造にある。

旧時代(工業的社会)であれば、将来というのはある程度予見可能なものであり、失敗の蓋然性というのはあるレンジの中に納まっていたので、部下の行動を抑制することによるメリットはデメリットよりも大きかった。

「余計なことを言わずに、オレの言うことを聞いていればいいんだよ」というマネジメント手法が、実際に効果的であった。

ただ、現代はそうではない。

将来は不確実だ。

先回りして教えるスキルやノウハウは陳腐化しているので、「お前の為を思って」指導したことが、役に立つことは殆どない。

でも、現在のマネジメント層は自分がそのような指導方法によって育ってきたから、もっと言うと、自分の頭で考えることを否定されて育ってきたから、そしてその責任を取らされるのは自分であるから、部下に自由に発想させることができないし、その後の展開が予測できないのだ。

未来は自分の想像力の範疇に収まるし、むしろ収まるべきだと考えている。

これでは生産性が上がるはずもない。

日本的マネジメントの限界と欺瞞

新しい事業のタネは、新しい仕事のやり方は、予想もされない所からやってくるものである。

そして当然ながらそこまでの過程においては失敗がつきものである。

その責任を負いたくないから新しい芽をつぶしているのでは、組織の発展性はないし、その責を取らせることに重点を置きすぎると、誰もが消極的な仕事しかしなくなってしまう。

かくして部下は指示待ちになる。

ただ、それを露骨に表現すると、マネジメントが悪いじゃないかと叱責されるので、善意というオブラートによって巧妙に隠すことで、自分は良いマネージャーであるということを装おうとするのだ。

ここに日本的マネジメントの限界と欺瞞がある。

僕は善意を否定しないし、善人だと思われたいという考えも否定しない。

ただ、それならそのカウンターサイドリスクも負って欲しい、ということだ。

「いいとこどり」はできないのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

リスクとリターンは相反するものである」

それがわからない人(本当の意味ではわからない人)はとても多いです。

僕は善人に思われたい人を否定するつもりはありません。

それは人間の根源的な欲求ですらあるとすら思うからです。

ただ、それにはカウンターサイドリスクがあることを忘れてはいけません。

あなたのチームの限界はあなたが作っているのです。

それを打破するには、リスクを取らなければなりません。

可愛い子には旅をさせること、そのリスクもマネージャーが負うこと、それを忘れずに仕事をしていきましょう。