反「上から目線」マネジメント
一億総「受け身下手」社会で
現代においてもっと嫌われるタイプのマネージャーは、「上から目線型マネージャー」である。
いや、マネージャーに限ったことではない。
とにかく「上から目線」というのは嫌われるのだ。
これは年齢・性別を問わず当てはまることである。
偉そうであるとか、お前が言うなであるとか、とにかく相手を「上から目線」というカテゴリーに入れてしまって、「聞くに値しない」と一蹴してしまうのは、現代においてはよく見られる事象である。
もちろん、これは「受ける側」の責任もある。
受ける側の許容度が下がっている(受け身が下手)ことや、合わない人に如何に合わせるかという努力の欠如など、「それはそれでどうなのかな」と思うことはある。
でも取り敢えず今日は、「そういう風に受け止める人が増えている」ということを前提として、「上から目線だと言われないようにする為にはどうしたらいいのか?」ということを書いていくことにする。
自分の使う言葉に意識を向ける
「上から目線」マネージャーにならないためには、どうすればいいのか?
結論から言う。
それは「自分の発した言葉がどのように相手に届くのか(届く可能性があるのか)を吟味し、言葉を選ぶこと」である。
そして「情理を尽くして説明する」ということである。
そして、実践的には、「主語を私にする」であるとか、「クッション言葉を使う」であるとか、「命令文ではなく、疑問文を使う」とか、そういうことになる。
もちろん、中長期的には「そもそもの人間関係を良好にする」であるとか、「徳(人間性)を高める」ということも必要となるだろう。
ではもう少し具体的に書いていこう。
自覚的であるかどうか
「上から目線」が「上から目線」と捉えられてしまうのは、相手に「自分のことなどわかっていないのに…」と思わせてしまうことから生じる。
もちろん、他者とのコミュニケーションにおいて、誤解というのは一定確率で生じてしまうものではある。
ただ僕の目から見ると、「上から目線」の発言をする人は、実際にその自覚がないことが多いし、その結果として、このように思わせてしまう確率がグッと上がってしまう。
そして残念なことに、こういうことが複数回生じると、評判というものが拡がってしまう。
要は、「あのマネージャーは上から目線だ」という意識がメンバーの中に生まれてしまうのだ。
結果として、時折出てくる「上から目線」ではないことも、全て「上から目線」として受け止められてしまうようになる。
これが「上から目線」スパイラルである。
パーソナリティは変えようがないけれど…
こうなってしまっては、挽回は(ほぼ)不可能だ。
「上から目線」カテゴリーに放り込まれて、そこから出てくることはできなくなる。
もちろん、そもそもの「尊大性」(その人固有のパーソナリティ)みたいなものを変えることはできない。
尊大である人というのは一定数存在するし、それは生来のものであるからだ。
ただ、それをどのように表現するか、というのは意識やスキルである程度どうにかすることができる(もちろん、尊大である人はそもそもこのような意識がないから、尊大であるのだけれど…)。
効果的に成果を上げる為にはどうすればいいのかを考えれば、自ずと答えは出るはず
これは成果至上主義とも関連してくる。
僕は成果というものを非常に大事にしている。
そしてその為の手段というものがあると考えている。
マネジメントにおいて、言葉というのは成果を作る為には非常に大事な要素である。
それを蔑ろにしているというのは、正直僕からすれば理解ができない。
自分の生来の性格は脇に置いておいて、成果を効果的に上げる為にはどうすればいいのか、ということを考えた場合、「上から目線」戦略というのは、どう考えても悪手である。
それがわからない人は、たぶんマネージャーとしても高い成果は期待できないだろう。
「私」を主語にする
では具体的にどのようにすれば、「上から目線」マネージャーにならないで済むか?
それは「私」を主語にする、ということだ。
意識的に一人称を使って話をするようにする。
これで大体のことは解決する。
「私はこう思う(知らんけど)」という話法は、「上から目線」マネージャーにならない為にはとても有効である。
善意は厄介でもある
先程「自覚がない」ということを書いたけれど、この中には「善意」で言っているものが含まれている。
ただ「良かれと思って」言ったことが、必ずしも相手にきちんと届くとは限らない。
「こうした方が良いよ」というアドバイスのどこに「上から目線」が含まれているのかわからない人もいるかもしれないので敢えて書いておくけれど、この種の「善意」の提供方法には気をつけても気をつけ過ぎることはない。
「善意」というのは、受け手からするとそのやり場に困ってしまうものである(いらないモノを貰った時の反応を想像して頂けると分かりやすいと思う)。
相手との関係性が構築されているのであれば、このような「善意」の受け渡しは何の他意もなく行われるのだけれど、そうでない場合にはそこに余計な意味が混ぜ込まれてしまう。
そして「善意」というのは先ほど申し上げた通り処理に困るものであるので、「ウザイ」「上から目線である」というカテゴリーに入れられてしまいがちなのだ。
この構造が理解できていれば、余計な善意を渡す必要がなくなる。
究極的には、相手がどうなろうと関係ない、というくらいのドライさが、「上から目線」マネジメントを防ぐ1つの方法になるだろう。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
リスペクト、ということを最近よく考えています。
「上から目線マネジメント」にはこの「リスペクト」という概念が欠如しています。
とかく日本では、年齢や職階などの「上下関係」が意識下にあって、上位者が下位者に対して敬意を欠いても問題ない、ということが当然であるかように思われていますが、僕はここにいつも疑問を感じています。
教育現場、部活、スポーツ界、ビジネス界など、それは普遍的なものとして存在しています。
僕は「敬意」というものは上から強要するものではなくて、下から自然に発生するものであると考えています。
そしてそれが下から自然に発生する為には、双方にリスペクトという概念が必要であると考えています。
適度な距離感と、ドライさを持ちながら仕事をしていきましょう。