公平と平等

機会へのアクセス権を揃えること
チームマネジメントの仕事を長くしていると、平等の概念を邪魔に思うことが時折ある。
ここで言う平等というのは、「皆を等しく扱う」ということに近いイメージである。
これが日本人特有のものなのか、たまたま僕の周りにそのような人が多いのかはわかりかねるが、「みんな同じでなければならない」「差をつけてはならない」という考え方に対して、僕は疑問を持っているし、適切ではないのではないか、と思っている。
もう少し敷衍すると、「同調圧力」であるとか「横並び意識」であるとか、そういうものにも繋がってくる。
これに対して、公平という概念がある。
公平は「機会へのアクセス権を揃えることである」と僕は思っている。
入場券、と言い換えてもいい。
ただ、入った後、競技を終えた後は、それぞれ異なる立ち位置にいるし、それによって例え差がついたとしても仕方ないよね、というのが僕が考える公平の概念である。
当然ながら結果は平等にはならない。
話がややこしくて分かりづらいと思うけれど、今日はそんな話をしていく。
後出しじゃんけんはナシで
機会の平等と結果の平等という言葉がある。
今回僕が言っていることは、機会の平等を公平、結果の平等を平等、ということに近いのかもしれない。
もちろん、機会の平等(公平)が完全に実現できるとは僕も思っていない。
ただ、事前のルール説明を行い、それに皆が(渋々ながらも)OKを出したとするなら、後から「いや、それは不公平でしょ」と言い出すのはナシね、というのが僕が今回言いたいことである。
それならルールメイクしている時に言ってくれ、と。
平等という概念を持ち出して、後出しじゃんけんをする人はとても多い。
でもそれは公平ではない、と僕は思っている。
後からタラタラ言い訳を言うなよ
例えば、オリンピックの100メートルの選手(ウサイン・ボルトとしよう)と一般人が競争をするとする。
始める前から結果は見えているので、それは公平とは言えない。
だから、ハンデをつける。
ウサイン・ボルトは100メートル走る、一般人は半分の50メートル地点からスタートする、先にゴールテープを切った方を勝ちとする。
双方にそのルールを説明し、合意したとする。
それなら、結果としてウサイン・ボルトが圧勝したとしても、後から文句を言わないで欲しい、ということである。
「いや、ハンデが適切じゃなかった。本当はもっとゴールに近くないといけなかったんじゃないか」であるとか、「靴のサイズが合わなかった」であるとか、「いつもと環境が違うから」であるとか、そのようなことは言い出さないで欲しい、ということである。
ブラーブラ―ブラー
もちろん僕たちはそれぞれが才能も違うし、経歴も異なるし、スタートラインはバラバラである。
それをそのままの状態で走らせることは、平等ではあるけれど、公平とは言えない。
だからそれぞれの状況に合わせて、ハンデをつけたり、条件を変えたりする。
これが公平性だ。
でも、一旦スタートを切ったら、後から難癖をつけるのはナシである。
結果の平等というのは実現しないし、実現すべきでもない。
それを後から「いや、フライングしていた」とか、「アスリートが出場するなんてズルい」とか言うのは僕にはよくわからない。
結果が平等でない=不公平?
でも僕のような人間は少数派であるようだ。
みんな「結果の平等」に対してとても敏感であるから。
そして「結果が平等でない」ということは「不公平である」と思っているようだから。
妬みや嫉み、足の引っ張り合い、出る杭は打たれる、などなど、僕たち日本人は平等への執着がもの凄く強い。
才能のある人がイジメられるのも、平等という概念が暴走している結果であるような気がしている。
学生時代においてイジメられるのは、周りと違う、ということが大きく関係している。
それは顔が良いとか才能があるとか、そういうプラス面での差異であったとしても関係がない。
人と違う、それも本人の努力ではなく、ただたまたまそのように生まれたから、というものに対しての風当たりは物凄く強い。
なぜあいつだけ、ズルい、という概念。
それを下方方向に揃えようとすること。
それを平等であると思っていること。
これが日本社会の活力を奪っているのではないか。
僕はマネジメントの仕事をしていていつもそう思う。
僕たちは甘えている
「gifted」という言葉がある。
これは「神から与えられた才能」ということを意味する。
そして対概念として「noblesse oblige」という言葉がある。
これは高貴なるものはそれに伴う社会的責任を負う、という考え方である。
僕はこれこそが公平の概念であると思う。
僕たちは皆それぞれ違う出自を持つ。
違う才能がある。
優れている者もそうでない者もいる。
でも、それ自体は仕方のないことだ。
もちろん出来るだけスタートラインを揃えるべく、社会的努力はすべきである。
でも一旦スタートしたら、結果として生じるものは正面から受け止めなければならない。
そして才能を持つものを引き摺り下ろすのではなく、才能を持つものは才能を持つものとしての社会的責務を果たすという方向に意識を向ける。
そうやって社会が発展していく。
僕たちは甘えている。
平等の概念を履き違えている。
それは公平ではないのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「相対評価+内申点」の中学生時代が僕は大嫌いでした。
思春期ど真ん中にそのように「周り」を見ながら育つことで、日本人はどんどん下方へ基準を合わせていくのでしょう。
足の引っ張り合いと下らないスクールカースト。
大人になってもそれは変わりません。
僕は才能を活かし、その分の責任を負う、という考え方が好きです。
その方が単純に楽しいし、健全だと思うからです。
マイノリティとしてこれからも戦っていくつもりです。
仲間に加わって頂けたら幸いです。