大物と小物

小物たちが組織を機能不全にする

世の中から大物が減って、小物が増えたなと感じている。

そしてその違いは「保身の有無」だと思っている。

多くの小物たちの、価値判断の最上位に来るのが、自己保身である。

意識しているかそうでないかは別として、保身が垣間見られると、僕はその人を小物と認定することにしている。

だからと言ってどうと言うことはない。

僕がただそのように認定しているだけである。

小物たちは弁が立つし、理論や数値を用いて、さもそれが正しいかのように話すのだけれど、肝が据わっていないというか、最後の最後では逃げるのだろうということが感じられてしまうので、結果としてその話というのは空中に浮いてしまう。

まあそれも僕がそのように思うだけであって、ただの勘違いなのかもしれない。

でも、そのことによって日本の組織全体が機能不全を起こしている可能性があるかもしれない、ということは書いておきたいと思う。

今日はそんな話をしていく。

空中ブランコと多くの屍たち

大人たちは若者に「リスクを取れ」と言う。

「失敗を恐れるな」と言う。

でも当の本人たちがリスクを取らず、失敗を恐れている。

これが日本の組織の問題点であると僕は考えている。

リスクを取る為には、失敗を恐れない為には、それを担保するものが必要である。

セーフティネットがなければ、誰だって進んで空中ブランコをやろうとは思わない。

それは当たり前の話である。

もっと言うと、若者たちが足場から離れ、空中ブランコに身を委ねた後、大半の大人たちは知らんぷりを決め込む。

平然と無表情で「やれなんて一言も言っていませんよ」とのたまう。

僕たちは次々と失敗し、落下する。

地面に激突する。

その屍を見ることすらない。

それが僕は日本の組織の現状であると考えている。

恥ずかしくないのか?

成功する為の方策も、失敗した後のリカバリー策も、全て本人任せである。

そして責任の所在は雲散霧消し、というか、本人に押し付けられる。

もちろん、全てを上位者が行うべきである、とは僕だって思っていない。

ただ、最終的な失敗の責任は上司者が取るべきであるとは思っている。

というか、上位者の仕事というのはそれだけである、と言ったって過言ではない。

それすらもしないのであれば、彼らは何のためにそこにいるのだろうか?

それを恥ずかしく思わないのだろうか?

権力と忖度と自己保身

周りの人間(傍観者たち)も同様である。

状況を客観的に見て、計量的に判断すれば、その責がどこにあるか、というのは大体わかるものである。

いや、たぶん、誰もがわかってはいるのだ。

でもそれを言うことはできないのだ。

権力構造と過剰な忖度によって。

そしてその過剰な忖度は自己保身から生じる。

僕だってその例外ではない。

僕もその小物たちの中の1人である。

でもそれではいけないのだ。

それを何年も何十年も繰り返してきて、日本の現状(惨状?)があるのだ。

内と外

僕たちは僕たちにできる範囲で、それぞれがそれぞれの責任を果たす必要がある。

誰のせいにすることもなく、ただ淡々とそれを引き受けることで、社会はもう少し良くなっていく。

僕はそんな風に考えている。

それは線引きというものと対照的な概念である。

線を引くと内と外が分かれる。

僕たちはすぐ内を守ろうとする(排外しようとする)。

でもそこには実は内も外もなくて、どちらも似たようなものでしかないのだ。

もう少し言うと、細胞壁みたいに、透過するくらいの線でしかないのだ。

僕たちは「僕たち」という領域から踏み出して、それぞれの手に負えるくらいの小さな責任を少しずつ負っていく。

国家とか地方自治体とか、そのような大きなものは僕には手に負えない。

でも、自分のチームとか属する組織くらいであれば、何とかなるかもしれない。

手の届く範囲、目の見える範囲で

僕はずっと自治とか協同組合みたいなものを考え続けている。

僕たちが責任を負おうとするのは、そこで生活する自分達が暮らし易くするためである。

それも世代を超えて。

もちろん僕は卑小なこの僕でしかないので、煩悩はあるし、そこには保身も含まれているだろう。

そしてできることの限界もあるだろう。

でも、その保身の向こう側に、もう少し大きな大義みたいなものがあれば、それは許容される範囲のものなのではないか、僕はそんな風に考えている。

世の中から大人が減って、大物がいなくなって、エリート層が衰退していく中、小物である僕たちにできることは、大物になることではなくて、手の届く範囲で、目の見える範囲で、そこにいる人達とより良い環境を作っていくことなのではないか。

大仰でなく。

大上段に構えることもなく。

ただ、できることをできる範囲で。

そこに共同体が立ち現れるのだと僕は思っている。

粋で大人なチーム

共同体と言ったって、ただの会社ただのチームである。

せめてその範囲だけでも、僕たちが所属しているという意識を持てるように。

昭和的統合でなく、令和的分断でもなく。

アノミーを超えて。

だからと言って、ドライさは失わずに。

粋で大人なチームを。

僕はそれを目指している。

理想主義?

夢想主義?

大いに結構。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

自分達の環境が苛烈なのは、外にいる誰か(悪者)のせいである、という思考方法からの脱却が必要だと最近よく思います。

というか、そう考えていても現状は何も変わらないから。

それなら出来る範囲で、そこにいるメンバーたち(自分も含む)が気持ちよく働けるような環境を作ればいい、僕はそんな風に考えています。

大物たちが僕たちに何かをしてくれることはもう期待できません。

世の中には小物しかいない、その事実を正面から受け止めて、でもそれでも出来ることはあると考えて、ただ淡々とそれを実行していきましょう。