叱れない人へ

Photo by Afif Kusuma on Unsplash

叱るリスクが大きい時代

パワハラだ、コンプライアンスだ、そのような話が社会的に広まった結果、「叱る」ことが難しい時代になった、そんなことを感じている。

もちろんハラスメントは論外である。

ただ、何事に対しても「程度」というものがある。

針が片方に大きく振れると、その反動も大きくなる。

現在はその反動の時代であるような気がしている。

実際の話、現在においてマネージャーが「叱る」ことはリスクが大きくて、リターンが少ない。

要は、「割に合わない」のである。

でも、時には「叱る」ことが必要であるし、それがなければ、チーム力は向上しない。

今日はそんな「叱れない人」への話をしてみようと思う。

かつての上司のようには振舞えない

「権威」というものが失墜している。

かつて権威者であった人(例えば父親、教師、上司)が地面に降りてきていて、同じ地平に立っている。

それが現代である。

「上から目線」というものがこれほど毛嫌いされるのも、そういう時代背景があるのだろう。

それをまず前提として捉えなければならない。

先人たちのように、自分がかつてされたように、「指導する」ことはできない。

それはもう所与のものである。

そこから話を始めることが重要だ。

権威関係ごっこ

また、「受ける側」も叱られることに慣れていない。

それが少子化の影響なのか、ゆとり教育によるものなのか、よくわからないけれど、自分の言動や行動が望ましいものでなかった場合に他者から非難めいた何かを言われる、という経験があまりにも少ないように感じるのだ。

ましてや、普段の関係性が構築されていない他者からの叱責など聞くに値しない。

そんな風に捉えているように思う。

僕らの時代は、(僕だけかもしれないけれど)上位者の言うことに不満があったとしても(というか、殆ど不満だった)、表面上は「はい」と聞いていたように思う。

それが良いとか悪いとか、理路が通っているとかいないとかは取り敢えず脇に置いておいて、権威関係(ごっこ)みたいなものが成立していたように思う。

それが現代ではもう不可能となった。

ヘラヘラ系マネージャーの出現と増殖

結果生まれてきたのが(大量発生したのが)、「ヘラヘラ系マネージャー」である。

「ヘラヘラ系マネージャー」というのは、僕の造語で、文字通り常にヘラヘラとしているマネージャーのことを指す。

取り敢えず任期を満了すること、波風を立てないことに全力を注ぐタイプのマネージャー

自分のチームで問題が発生しても、それが他のチームに迷惑を掛けていても、責任を取ることなく、ヘラヘラ笑って誤魔化そうとする種類のマネージャー。

皆さんの周りにもいるだろう?

時にこの種の人には「優しい」という形容詞が付くことがある。

僕には理解不能である。

それは「優しい」のではなく「甘い」だけであるから。

ヘラヘラ戦略は理に適っているが…

でも、現在のような評価体系においては、理に適っているとも言える。

過度に成果を追及されない現状においては、「甘くする」デメリットはあまりないからである。

それよりも「パワハラだ」と糾弾されるリスクの方が圧倒的に大きい。

だから皆「ヘラヘラ戦略」を取るのだろう。

部下を育てたところで、チームが成果を出したところで、評価が大して変わらないのであれば、穏当に任期を過ごすというやり方は、決して悪いものではない。

でも、だからこそ日本社会には活力がなくなっているし、仕事もつまらなくなっている(ただ生活費を稼ぐ場所になっている)ような気がしている。

ただ、もしあなたがそうでないマネージャーになりたいと思うなら、以下のアドバイスを参考にしてみて欲しい。

それは「叱る前に関係性を構築する」ということである。

要は「権威を利用せずに叱れるかどうか」である。

バフは消えた

かつては、権威というものが、ボーナスポイントとしてマネージャーに与えられていた。

バフがかかった状態で、部下と接することができた。

自身の論理的正当性、日々の言行一致度合いみたいなものは取り敢えず棚上げして、「上から」叱ることができた。

でも、上記したようにそれは不可能になった。

その際に必要なことは、言葉が受け入れられるような関係性を構築することである。

確かにまどろっこしいことは否めない。

「なんでそこまで?」という気持ちも理解できる。

でも、それしかないのだと思う。

肩書なしで言葉が届くか?

ここで面倒くさがると、「ヘラヘラ系マネージャー」の仲間になるだけである。

上司というのは別に偉くも何ともない。

ただ仕事として、職務として、「そのような種類の」役割を負っているに過ぎない。

その肩書を取り除いて、あなたは部下に言葉を届けられるだろうか?

裸のあなたは興味深い人間であるだろうか?

それを胸に問いかけて欲しい。

Iを主語にする

もう少し言うと、「叱る」ことが難しくても、「私はこう思う」という言い方はできるはずである。

これはいつも僕が言う「ポジションを取る」ことに繋がってくる。

「I」を主語にして話すこと。

日本語的でなく、英語的に話すこと。

これが肩書を取り除いた、人間同士の会話には必要である(言語学には疎いが、たぶん日本語というのは関係性を重要視する言語なのだろうと思う。空気とか場のような概念はいかにも日本語的だ)。

良いとか悪いとか、善とか悪とか言うと、話は難しくなる。

だから自分が思うことを伝える。

あとの判断は相手に委ねる。

そこから関係性というのは立ち上がってくるのだと僕は思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

叱るのはダルい。

その気持ちはよくわかります。

叱ったからといってその人が改善することは殆どないですし、気分は悪くなるし、良いことはありません。

でも、です。

それができなければ、チームが向上することはありません。

大事なのは、叱った当人が変化するかよりも、マネージャーが当人を叱っているという行為そのものであるような気がしています。

パフォーマンスを含めて、時に叱りながら、規律を維持していきましょう。