日本で働きがいが高まらない理由
会社に貢献したいと考える社員の割合は6割弱(世界最下位)
2022年5月1日の日経新聞に、「1人当たりの労働時間は2020年に16年比で100時間減るなど働きやすくなったものの、仕事に熱意を持ち会社に貢献したいと考える社員の割合は6割弱と世界最下位にとどまる」という記事があった。
働き方改革により有休取得率が増え、労働時間は減ったけれど、働きがいに改善が見られない(働きがいを感じる社員の割合は、16年の58%から20年の56%と減少。世界平均との格差も10%ポイントと縮まらないまま)との内容である。
まあそりゃそうだろな、というのが僕の感想であり、記事の論調とは異なるが、逆に6割弱も働きがいを感じる人がいるのか、という驚きもあるものでもあった。
さて皆さんはどのように感じるだろうか?
記事の結論としては、「上意下達の組織風土や年功序列によるポスト滞留など、旧来型の日本型経営が社員の働きがい低迷に影響している」とのことであるが、果たして本当にそうなのだろうか?
僕の印象としては、「それも確かに一理あるけれど、そもそもの概念が変わってきているのでは?」という感じである。
今日はそんな話をしていく。
長時間労働の是正は必ずしも働きがいの向上に繋がらない
「働き方改革」の中身は多岐にわたっていて、どこに焦点を当てるのかが難しい部分はあるのだけれど、この記事に照らして言うなら、「長時間労働の是正は必ずしも働きがいの向上に資するとは限らない」ということになるのかもしれない。
長いこと、「日本人は働き過ぎだ」という論調が巷間にはあって(正しい議論だとは言えない部分もあるが)、それを改善すればみんなやる気を出すはずだ、という考え方が政府にはあるのだと思う。
「ワーク・ライフ・バランス」なる言葉も、この考え方に似たものだろう。
要は、「仕事と生活は別」であって、「仕事(ワーク)」を減らし、「生活(ライフ)」を増やせば(バランスを取れば)、やりがいは高まる、という思想である。
「それがそもそも間違っているのでは?」というのが今日の僕の話の骨子となる。
そして、「仕事=苦役」という考え方を変えませんか? というのが僕からの提案となる。
それでは詳しく書いていこう。
仕事は「生活」に包摂されつつある
僕は「仕事は生活に包摂されつつある」と考えている。
「両者の境界は溶け合っている」と思っている。
そこに僕の記事に対する違和感があるのだと思う。
仕事と生活は分けて考えるべきものではなくて、生活の中に仕事があって、かつそれは人生の一部に過ぎない、そう考える人の割合が増えてきた一方、「旧来型の仕事」を求める組織はその流れに対応できていない、というのが僕の今の社会の捉え方である。
そういう意味では「日本型経営が社員の働きがい低迷に影響している」という文章は合っているような気もする。
でも、もう少し大きな概念がそこにはあって、仮に日本型経営が改善されたとしても、社員の働きがいは高まらないだろうな、と僕は考えている。
もう少し大きな概念?
それは「仕事自体がつまらなくなっている」ことに「気付いてしまった」ということだと思う。
クソ仕事と延長戦
デヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ」にもあるように、僕らの仕事には意味がないということに僕たち自身が気付いてしまったことが、働きがいの喪失に繋がっているのだと僕は考えている。
それはたぶん日本だけの話ではなくて、世界中同じような傾向があるのだろうけれど、その影響が特に強いのが日本なのではないか、とそんな風に思うのだ。
坂の上の雲、ではなけれど、坂を上って丘の上に立った時、そこには何もないことに僕たち日本人は気付いてしまったのだ、と僕は思う。
エコノミック・アニマルと蔑まれて、敗戦後から臥薪嘗胆の日々を送る中で達成したものが、空疎なものに過ぎなかったという虚しさ。
そこから先の延長戦。
そこに僕たちは立っている。
「ごっこ遊び」にはもううんざりだ
栄光の時代を知る昭和世代たちは、それを取り戻すべく遮二無二僕らを駆り立てようとするのだけれど、僕たちは彼ら(彼女ら)自身もその空虚さに薄々気づいていることを知ってしまっている。
その擬制と欺瞞、「ごっこ遊び」「プレイ的なもの」に僕たちは飽きつつある。
それが日本で働きがいが高まらない理由だと思う。
社畜論とFIRE論
「僕たちの仕事には意味なんてない」という中二病的な気づきは、仕事に熱心に取り組む人達への軽蔑に変わり、仕事をしている自己(と他者)を家畜と見なし(社畜論)、その時間は耐え忍ぶものであると認識する(一方で仕事をしていない自分こそが真の自己であると思う)ことで、自己否定を避けようとするのが当世流の振る舞いである、と僕は考えている。
そしてそこには「カネ」の問題が底流している。
FIRE論がもてはやされるのも、たぶん「脱出」的なイメージがそこにあるからだろう。
僕たちは苦役をカネに交換することで、生活を成り立たせている。
その概念を変えなければ、たぶん働きがいは高まらないだろう。
AIが人間からクソ仕事を奪い、ベーシックインカムによって生活が保証された時、そこにあるのはユートピアなのか、ディストピアなのか、僕にはわからない。
でも少なくとも、現在が健全でないことは確かであるとは言える。
仕事に意味を与え、意義を与えることは可能なのだろうか?
マネージャーとして何か提示できるものはあるのだろうか?
僕はまだわからないでいる。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「そっちがその気なら、こちらにも考えがある」というのが、エンゲージメントが高まらない一つの要因であるような気がしています。
でも、かといって、集団から逃れて個人でやっていくほどの勇気はない。
だから、何となく不満を抱えたまま、現状維持を続けている。
それが現代のサラリーマンの一般像です。
そしてそれは必ずしも悪いことではないのではないか、と僕は考えています。
極端な同質化を回避しながら、上手に組織を利用しながら人生を謳歌しようとするのは、昭和の人達よりよっぽど「人間らしい」と(フーコー的に)僕は思うのですが、そのように考える人は少なそうです。
働きがい幻想に囚われ過ぎず、いい塩梅でやっていきましょう。