昭和の呪いはどうやったら解けるのか?

仕事を辞めたいと言いながら、毎日遅刻もせず会社に向かう僕たち

僕たちは昭和の呪いにかかったままである。

昭和の呪いというのは、「日本的○○」と言われるような社会的習慣のこと(本来的には日本的○○というのはここ最近の概念でしかなく、古くから続いている訳ではないのだけれど、分かり易くする為にここではそのように記述する)を指す(ことにする)。

例えば、満員電車に乗って毎日会社に行くのが普通とか、残業する方が「頑張っている」と認められるとか、根性至上主義とか、そういうものだ。

コロナ以降、従来当然だと考えていた昭和の価値観に揺らぎが生じた。

リモートワークの普及とそれに伴う東京一極集中からの脱却(地方への移住など)など、実際にその呪いを解く動きが出ている一方、コロナが収まりを見せると、また元の価値観への回帰が起こる、そしてその力の構造の優位性は大して変わらない、そんな感じである。

僕たちは世界一会社を憎んでいる民族であるにも関わらず、会社というものに世界一縛られている

そんな不協和を抱えながら、仕事を辞めたいと常に口にしながら、それでも毎日仕事に行く矛盾した生き物である。

そのような呪いを解くことはできるのか?

今日はそんなことを書いてみようと思う。

昭和世代は相対化をしない

僕は従来から、谷間の世代ということを主張していて、上には昭和が、下には令和があって、その狭間で身悶えしているのが僕らの世代である、と考えている。

どちらの感覚もわかるけれど、どちらにも属していない、それが僕たちの世代である。

そんな中で今日のテーマは上の世代、昭和世代についての話である。

僕から見える昭和世代は、無邪気に、悪気なく、その価値観を信奉している。

でも、一方でその「悪気のなさ」が一番の問題なのではないか、とも思っている。

彼ら(彼女ら)は疑うことをしない。

自身を相対化することをしない。

ここに僕は「幼さ」を感じるのだ。

成熟とは相対化のことである

人間が成熟する為には、「大人」になる為には、相対化が不可欠であると僕は考えている。

自身の価値観というのは、あらゆる価値観の1つに過ぎなくて、それも絶対的なんてことはあり得ない、ということを知ることから成熟が始まる。

それは同時に、自分を疑う、自身の過去を否定する、ことを意味する。

信奉の度合いが強ければ強いほど、その過去を否定することには大きな困難を伴うものである。

彼ら(彼女ら)の成功体験(日本の戦後の復興と高度経済成長)は物凄く強く輝かしいもので、それを否定するなんてことはきっと意識にも上らないのだろう。

ただ、ここに僕は問題があると思っている。

彼ら(彼女ら)の言う成功は、本当に成功と言えるのだろうか、と。

「三丁目の夕日」症候群

もちろん、敗戦後の背に腹は代えられない状況から、日本を再興させるという難事業についての功績は否定しようがないほど素晴らしいものであることは事実である。

それについてどうこう言うつもりは毛頭ない。

ただ、時代は変わり、日本の凋落がはっきりと目立ってきた現代において、その時と同じような状況になれば、日本は同じように復活する、と(盲目的に)考えているのが僕には解せないのである。

「三丁目の夕日」症候群みたいなもの。

ノスタルジーに浸りたい気持ちはわからないではない。

でもさ、と僕は思うのである。

それも1つの価値観に過ぎない、と相対化してみてもいいのではないか、と。

昭和に郷愁は感じるけれど…

上記したように、僕は谷間の世代である。

昭和の残り香を吸って、社会人としてのキャリアを始めた世代であり、そこに懐かしさと郷愁を感じるのも事実である。

でも、同時に悪い面もたくさんあったとも思うのである。

その功罪両面を考量して、では現代に適合的な方法とは何なのかを考えるのが、マネジメントの仕事であると僕は思っている。

そこには自己否定という名の痛みを伴う。

でも、それをしなければ、前に進むことはできないのだ。

理想のキャリアプランを誰も楽しんでいるように見えない現実

僕はバイアスを取り除いた目で、現代日本の状況を見て欲しいと思っている。

それは経済的成功や経済成長率、生産性の向上みたいなものを言っているのではない。

単純に、「面白くなさそう」なのだ。

仕事は苦役と同義で、それに耐えることを良しとする価値観。

その苦難の先に、輝かしいキャリアがある、という(僕からしたら)幼稚で単線的なキャリア観。

いい大学に入って、いい会社に入って、住宅ローンを組んで、定年まで勤めあげるという、金太郎飴みたいな人生プラン。

そしてそれを「誰も楽しんでいるように見えない」というこの現実。

それを疑うことから始めてみたらどうなのだろうか?

社会的上昇(笑)? 仕事のやりがい(笑)? 

僕たちの社会は、昭和の呪いにかかったままだ。

それは支配的な地位を占めている人達が、心から昭和の価値観を信奉しているからだ、と僕は思っている。

コロナウイルスがその一部を解除したかのように見えたけれど、そんなことはなかったようである。

僕は彼ら(彼女ら)の言う、社会的上昇に何の魅力も感じていない。

彼ら(彼女ら)の言う「仕事のやりがい」というものに、価値を見出せない。

そんな僕らが、支配的な地位になった時、社会は変わるのだろうか?

それまで僕たちはこのような働き方を続けるのだろうか?

僕にはまだよくわからない。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

昭和というものに僕たちは定点を置いているけれど、実はその時代の方が例外だったのでは?

最近はそんなことを考えています。

その一時期の幻影が現代に影を落としていて、それがより現在をつまらないものにしているのとしたら?

例外的な高度経済成長やバブル経済をデフォルトとして考えると、確かに現代は劣った時代のように見えるのかもしれません。

でも、その時代が幸福だったようにはどうにも僕には思えないのです。

青臭いことや甘っちょろいこと抜きで、現在つまらなそうに仕事をしている人達が過去を美化しているだけで、本当は楽しく仕事をしたかった(いや、生きたかった)のではないか、と僕は思っています。

呪いを解いて、前に進みましょう。