「きちんとする」のは良いことか?

ルール化という呪縛
コンプライアンスなんて言葉が市民権を得た頃から、社会が過剰に秩序を求める方向に動いていると感じている。
何事も「きちんとしなければならない」という呪縛に囚われているような気がしている。
その結果が様々なものの「ルール化」である。
できるだけイレギュラーなものをなくし、ルールの範囲内で事を収めようとすること。
ルールから外れたものに対しては、更なるルールを作り、それをも包含しようとすること。
複雑なものを単純に。
その考え方自体は決して悪いものではないけれど、何というか、「過剰」であるように感じるのだ。
そしてそれが善意から生じているから、余計にたちが悪いような気がしている。
それは組織においても同様である。
今日はそんな話をしていく。
問題が生じた時、あなたはルール化で対応しますか?
「あなたはチームに何か問題が起きた時に、新しくルールを定めて、その問題を解決しようとしますか?」
これが今日の話の主題(問い)である。
既存のルールから外れる問題が生じた際、その事象に対してどのようなアプローチをあなたは取るだろうか?
僕のスタンスはこうだ。
「そのままでいい」
「グレーのままでいい」
曖昧にしておくと怒られる
ただ、こういう考え方は時代適合的ではないようである。
「そんな曖昧な状態にしていたら、また問題が起きた時にどうするんですか!」と真っ赤な顔で怒られてしまうのである。
「課長がそんな風だから、問題が起こるんですよ!」とまで言われたりする。
でも、果たして、本当にそうなのだろうか?
想定外ばかり
秩序化の方向性は必ずしも悪いことではない。
でも、それはあくまでも「平時」の思想である。
僕はそんな風に考えている。
その成れの果てが、「想定外」という言葉(の乱発)だろう。
秩序の外には無秩序があって、そこはルール化されていない。
そのルール化されていない荒野にルールを適用とする(秩序化)ことには際限がないし、細分化しようとすればいくらでもできてしまう。
そしてその何百条にも及ぶルールから逸脱した行為(事象)が起きた場合には、ひたすらルールブックを探し、見つからない場合には思考停止に陥る。
判断ができなくなってしまう。
僕はそれこそが問題だと思うのだ。
正義の乱立による小競り合い
これはたぶん「正義」の概念と結びついている。
世にはたくさんの「正義」が溢れていて、正しいことを主張することで、相手の反論を抑え込もう、という意思がそこかしこで働いている。
正しさを前にすると、人は黙るしかなくなるからである。
このようなマウンティングの取り合い、局地での小さな勝利の奪い合い、それが僕たちの生きるこの社会を息苦しいものにしているような気がする。
ルールと規範
これはチームマネジメントにおいても同様である。
メンバーの行動を管理する時に、あなたはルールベースで行うだろうか?
もしくは規範ベースで行うだろうか?
どちらを取るかによって、チームの方向性は大きく変わっていくだろう。
前者は性悪説、後者は性善説に基づいている、と僕は思っている。
そしてチームマネジメントにおいては性善説を取る方が望ましいと思っている。
でも、前述したように世の中の流れは、ルール至上主義とも言えるような状況であって、それを貫くのもなかなか難しい状況になってきてしまっているのが実情である。
それでも、と僕は思う。
ルールで縛るようなやり方は避けた方がいい、と。
自治と父
僕はよくチームのメンバーに「自治」ということを話す。
基本的にはメンバー間で話をしてもらって、自分達の職場を自分達で良い状態に保って欲しい、と僕は思っているし、それが健全な姿なのだと思っている。
日本社会は上位者がいて、その人が父のような立場で権威を振るう、その人の言うことが絶対である、みたいな概念(例えばチーム単位であれば、マネージャーがここに該当する)が未だに残っていると思うのだけれど、そのような運営方法はできるだけ取らないようにする。
揉め事が起きたとしても、その中で解決方法を探ってもらう。
それは時と場合によって異なることが多い。
それでいいのだと僕は思う。
裁判官と原告と被告
何というか、裁判官と原告・被告みたいな構図になってしまって、裁判官であるマネージャーが裁きを下す、という状態はあまり望ましいことではない、と僕は思っている。
そして、その判決に基づいた新たな法律を作る(それも際限なく)、というのも好みではない。
もちろん方向性みたいなものは示すべきである。
ただ、それが行き過ぎるのはどうかと思うのだ。
ルール化とAI化
ルール化は限界を決める行為でもある。
領域を定めるものでもある。
その枠の中で、安定的に、秩序立って暮らしていきたい、その気持ちはよくわかる。
あまりにもアナーキーな毎日では疲弊してしまう、それはその通りだと思う。
ただ、何事にもバランスはあって、現在ではそれが「ルール化」に偏り過ぎているのではないか、と僕は思うのだ。
ルール化は人間をAI化する行為に等しい。
コードを書き足すことと同義だ。
僕はそんな風に思っている。
コードにない事象には「エラー」を返すだけ。
それで高いパフォーマンスなど出る訳がないだろう?
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
ルール化とコード化。
それによる入力と出力の安定化。
それは果たして良いものなのだろうか?
そんなことを最近は考えています。
もちろん「行き当たりばったり」というのは望ましくないですが、あまりにもルール化が進みすぎてしまうのもそれはそれでどうなのかな、と僕は思っています。
僕たちはルールを作ることで、自らをAIに近いものにして、その競争力を結果的に削いでいる。
結果として、思考停止する人ばかりになってしまっている。
秩序化の成れの果て。
ルールを逸脱する人に対して顔を真っ赤にして怒る人達を見て、僕はディストピアを連想します。
そうやって僕たちは死滅していくのでしょう。
不機嫌な人を遠ざけ、大らかに働いていきましょう。