良い人戦略はやっぱり強いぜ?
嫌われるようなことを言っても嫌われないことはあり得る
「管理職は嫌われ役にならなければならない」
マネジメント本にはよく書いてあることである。
確かにチームの一定の規律をもたらすためには、ある程度マネージャーが嫌われるようなことも言わなければならないのは事実である。
ただヘラヘラしているだけではマネージャーは務まらない。
でも、僕が考えるマネジメント本との違いは、「嫌われるようなことを言うのと、実際に嫌われるのは違う」ということである。
嫌われるようなことを言っても、嫌われることがないということは起こりうる(両立できる)のだ。
そして、それにはマネージャーが「良い人」であることが必要である。
今日はそんなことを書いていく。
他人に構いたくない
僕は元来人のことをとやかく言うのが苦手である。
それは僕が善人であるからではなく、単純に「他人は他人である」「他人を変えることは不可能である」という冷めた目を持っているからである。
もちろんチームにとって有害になるようなことは指摘するけれど、それが大きな問題でなければそのままにしておくことが多い。
そういう意味では、僕は放任型のマネージャーであると言える。
運が良かっただけ。でも…
何年もマネージャーをやる中で、「もっと厳しくした方がいいんじゃないか?」というのは何度も自問自答したことであるし、実際に上司からもそのような指導を受けてきたものである。
でもその度に、高い成果を上げることでその批判を跳ね返してきた。
ここには運の要素が(多分に)ある。
たまたま大きな案件が出てきたり、偶然メンバーが良い情報を聞きつけてきたり、とにかくなぜだかわからないけれど幸運が舞い込んでくる、というような事態が起こって、何度もピンチを切り抜けることができた。
ただそれはある種必然でもあると僕は思うのだ。
創意工夫と多様性
チームを自由に運営していると、メンバーが創意工夫をする余地が生まれる。
メンバーの数が多ければ多いほど、その動きには多様性が生じる。
生物の棲み分けと同じように、それぞれの領域でそれぞれの進化をしていく。
時には突然変異も起こる。
それが運を呼び込んでいるのである(なんだかオカルトちっくではあるが…)。
上意下達のチームは脆い
厳しいチームというのは方針が統一されていて、メンバーも同じ方向に力強く進むことができるのが大きな特徴である。
これは昭和時代には強みであった。
トップダウンで命令が下まで降りてきて、会社の上位層の指示を適切かつ愚直に遂行する、それが高い生産性を生み、高い利益率を生む。
日本型経営の強みの部分である。
しかし時代は変わった。
ビジネスのスピードは上がり、消費者のニーズは多様化し、かつ流転していく。
そんな中で、会議で決められたような方針をずっと続けることはある種のリスクですらあるのだ。
それはメンバーが疑問も持たずにその指示に従い続けることで、市場との乖離がどんどん大きくなっていくからである。
「風通しの良い会社」という「ブラック企業探知ワード」とは違って、それぞれのメンバーが各々勝手に動いていく、それが結果としてチームの為になっている(こともある)くらいの感じが、本当の意味での風通しの良さだと僕は思っている。
そしてそのチームには「良い人」が必要なのだ。
打算なき善意
何年もマネージャーをやってきて僕が思うのは、何だかんだ「良い人」でいる方が得だよね、ということである。
これはゲーム理論なんかを持ち出すまでもなく、実際の体感としてそのように思うのである。
情けは人の為ならず、とはよく言ったもので、打算なしにかつて親切にしたことは、思いもかけないタイミングで自らを助けてくれるような気がする。
僕は別に善人ではないけれど、恩着せがましくはないようで(それはただ単純に他人に興味がないからなのだが)、それがかえって良いのかもしれないと思うことが時々ある。
「あの時助けて頂いて」とか「あのアドバイスで救われまして」なんてことを、こっちは何とも思っていないのに言われることがある。
その人達がそれぞれの分野で偉くなって、僕のことを必要以上に良く言ってくれたりもする。
照れくさい話であるし、自慢しているように聞こえるかもしれない。
でも今日言いたいのはそういうことではなくて、実利的に有効でもある、ということだ。
「お前の為を思って」はウザい
冒頭に書いたように、嫌われ役になるのは、(当たり前だけれど)嫌われることではない。
あくまでも「役」である。
そしてその際に「お前の為を思って」みたいな、変な感情はいらないのだ。
単純に、純粋に、そう思うからそう言う、そのくらいのスタンスでいいのだと思う。
それで実際に嫌われればそれまでの話だし、嫌うかどうかは相手の問題であるからである。
自分の為の言葉は届かない
僕は自分にも他人にも厳しいと自覚している。
甘いマネージャーでは全くない。
ただその厳しさには利己心は含まれていないのだ。
マウンティングの要素も一切ない。
ただ純粋な感情、素朴な苛立ちのようなものがそこにあるだけなのだ。
そしてそれはありがたいことに、わかる人にはわかるような種類のものであるようなのだ。
僕はこれからも良い人を志向していく。
自分がそうじゃないことは十分に自覚しているが、そうありたいとは常に思って仕事をしていくつもりだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
感情をストレートに表現することは、あまり日本では好まれないようです。
ただ、一方でそれを暗に求めている人は一定数いるような気もしています。
「捻じれのない言葉」は、現代みたいに捻じれた言葉だらけの世の中では重宝されます。
自分の人の良さをそのまま出していきましょう。