昔のテレビとマネジメント

お洒落な大人たち
YouTubeのオススメに昔の名も知らぬテレビ番組が上がってきたので、何の気なしに見てみたら、そこに流れる空気感があまりにも「大人」で、不覚にも「いいなあ…」と思ってしまった。
出てくる人達が皆大人びていて、何というか洒落ているのである。
そして、視聴者である僕たちへの一定の信頼感が感じられるのだ。
舐めていない、というか。
時代的には僕が小さい頃か、もう少し前くらいだろうと推測されるのだけれど、現代とのあまりに違いにちょっとクラクラしてしまったので、それを題材に今日は書いてみようと思う。
マネジメントに繋げられるかどうかわからないが、そんな切り口で話を始めていく。
野暮な子供たち
まず自分なりに思うのは、「幼児化」というキーワードである。
そして「粋」という概念である。
要約すると、昔は「大人」で「粋」であった、今は「子供」で「無粋(野暮)」である、そんな感じだ。
ここには思い出補正や懐古主義の要素がないとは言い切れないけれど、少なくとも僕はその番組を見た記憶はないし、どちらかというと歴史的資料として比較してみたという感覚で読んで頂けるとありがたい。
あなたの意思とは?
これはマネジメントをしていても日々感じることである。
自戒も込めて書くと、僕はチームのメンバーを大人として扱いたいけれど、どうも子供として扱わざるを得ない局面がある、そしてその頻度は日に日に高まっている、そのように感じるのである。
マイクロマネジメント的に、日々の行動管理をしたり、仕事内容を細かく説明したり、意思決定を委ねられたり、そういう場面が増えているように思う。
別にそれならそれで構わないのだけれど、彼(彼女)らは「それで楽しいのかな?」と僕は思ってしまうのだ。
「意思はあるのかな?」と思ってしまうのである。
意思がなければ、その人を介在させる意味はない
マネージャーとして仕事をしている中で疑問に感じるのが、「どうしたいか」を仕事に混ぜ込めないのであれば、何のためにその人は存在するのだろう、その人がそこに介在する必要はあるのだろうか、ということである。
厳しい言い方かもしれない。
でも、それがないなら、「自分がどう思うか」とか「どうしたいか」がないのであれば、その人はいらないな、と僕は思ってしまうのである。
「意思決定を外部(他者:ここでは上司であるマネージャー)に委ねる」というのは、組織的には間違っていないことなのかもしれないけれど、例えそうであっても、「私はこう考える」「こうしたい」という主張は必要なのではないか、と僕は思う。
確かに、意思決定を上司に任せれば、自分はそれに従っただけだ、という言い訳ができる。
でも、「意思能力がない」という主張は、同時に「主体者ではない」ということと同義であるような気がしてくるのである。
子供との戯れ
これは「未成年者との契約は法的拘束力を生じさせない」というような概念を想起させる。
僕はチームにおける唯一の「大人」であって、その意思決定は全て僕に委ねられており、それ以外のメンバーは「子供」として振舞う、そのようなスタンスに対して、本当に吐き気を催しそうになる時がある。
幼児をあやすようにメンバーの機嫌を取ったりしていると、「オレは何をしているのか?」とふと我に返り、気が狂いそうになる。
「自分がやりたい仕事はこのような仕事なんだっけ?」と冷静になると、やっていられない。
そんなことが「昔のテレビ」を見た時に、「いいなあ…」という気持ちを思い起こさせたのだろう。
緩いボール
そこにあるのは、「他者への信頼感」であるような気がする。
「高い球」「難しいボール」を投げても、受け取ってもらえるだろうという信頼感がそこにはある。
翻って現代は、「低く」「緩いボール」を投げなければならないように追い立てられているような気がするのだ。
受け手を舐めながら、「こんなもんでいいだろ」という球を投げる。
僕だってそんな風に仕事をしている時がある。
でも、本当はそういう形で仕事をしたい訳ではないのだ。
もっと「大人」たちと仕事がしたい。
それがここ最近僕が強く思うことである。
懐古厨? I know.
これは理想論的な響きがあることは否めない。
そんな組織やチームは現代には存在しえないのかもしれない。
懐古厨のような戯言。
でも、本当にそうなのだろうか?
自分のことは棚に上げますが…
僕は特に日本において「幼児化」が進行しているような気がしている。
気のせいであって欲しいとは思う。
でも、本当にそう感じるのだ。
子供っぽくてダサい人たちばかり。
僕だってきっとそこに含まれている。
それでもさ、と思うのだ。
僕は大人のチームを作りたい。
日本全体が野暮になっていく状況の中で、少なくとも手の届く範囲では洒落た仕事をしていきたい、そう思っている。
そしてそのような人が少しでも増えたらいいなというささやかな希望を持ってこのブログを書いている。
中二病のまま
大人になる方が損をする世界で、割を食う世の中で、そんなことを言うのは馬鹿げたことなのかもしれない。
でも、その理想がなければ、何のために仕事をしているのだろうか、とも思うのである。
中二病、未だ完治せず。
それで結構。
望むところだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
この数年で「カッコいい大人」は絶滅したのではないか?
僕はそんなことを結構本気で思っています。
少なくとも僕の周りにはいなくなってしまいました。
僕が入社した頃にいた、「親分」みたいな肝の座った大人たちはみんなどこに行ってしまったのでしょうか?
ダサくて卑怯な小物たちばかり。
その自覚すらない厚顔無恥さ。
僕はそれに抗って、また今日も敵を作って、仕事をしています。
孤立無援のレジスタンス。
援軍として加わって頂けたら、というか、どこかで同じようにゲリラ戦をやって頂けたら幸いです。