微熱のマネジメント
令和ドライと昭和ウェット
やっぱりマネジメントには熱量が必要だよな。
そんなことを最近考えている。
僕は元々スーパードライな性格で、昭和的なウェットなものがあまり好きではないのだけれど、あまりにも低体温(低湿度)過ぎるのもどうなのかな、と思うのである。
個人はあまりにも無力だ
コロナウイルスのせいだけでなく、僕たちの人間関係は希薄化している。
共同体は崩壊し、個人個人が世界と向き合わざるを得ない局面が到来している。
でも、個人1人なんてあまりにも無力だ。
それは職場においても同様である。
そんな中でどんな風にマネジメントを行えばよいのか?
僕が考えているのは「微熱のマネジメント」だ。
低体温のマネジメント
「緩い共同体」みたいなことを結構長い間考えている。
それは昭和的共同体とは異なる概念で、強制的というよりは自発的なイメージの繋がり、みたいなものである。
共同体とはいうものの、別に繋がらなくてもいい、というか。
僕は誰かと何かを一緒にやるというのが昔から苦手で、それを当たり前のように強制してくる社会が嫌で、そのまま成長してスーパードライなマネージャーになった。
低体温のマネジメント。
それについては現在も別に後悔していない。
悪いとも思っていない。
でも、時折、特に若手たちを話をする時に、「このままでいいのだろうか?」ということが頭をもたげてくるのである。
温度と熱量
彼(彼女)らは僕たちとは違う。
それは良いとか悪いとかそういう話ではなく、感覚の違いがある、それだけの意味である。
他意はない。
というか、むしろ好意すらあるくらいだ。
でも、同時に、物足りなさを感じるのである。
その温度の低さに。
熱量の少なさに。
リモート礼賛主義の崩壊
社会的な繋がりはネットによって担保される、そんなイメージはここ何年かで崩壊しつつある、僕はそんな風に考えている。
極端なリモートワーク礼賛主義も、一部ではまだ残っているのかもしれないけれど、今ではだいぶナリを潜めてきて、「まあバランスが大事だよね」という中庸なものに落ち着いてきたように思っている。
リモートワークではできないことがある。
ネット回線に体温は伝わらない。
あれだけ望んでいた会社との繋がりが減って、デメリットよりもメリットの方が圧倒的大きいと感じていても、僕たちはなぜか物足りなさを感じている。
それは長年欲しかったものが手に入った後の虚しさ、これじゃない感、みたいなものに近い感覚である。
昭和ウェットが空いた後の空白を埋めるものとは?
誤解して欲しくはないのだけれど、昭和的な繋がりを求めている訳ではないのだ。
ウェットなワッショイ感はいらない。
というか、大嫌いですらある。
でも、その空いた空白を埋めるような何かというのは必要な気がするのである。
1人では戦えないから。
誰も幸福感を感じていない日本的一体感
僕は日本的な一体感みたいなものが昔から苦手だ。
ちょっとでも列から逸れると、袋叩きにあう、あの感覚が嫌いだ。
そしてだからと言って、その列に並んでいる人達も心地良さを感じている訳でもない不思議な感覚。
僕たちは皆一様に不幸である。
空気を読み合って、忖度をし合って、でもそれに幸福を感じている訳でもなくて。
それに対して何か行動を起こす訳でもなくて。
意地悪さと醜悪さ
僕は日本人というのは本質的には個人主義者であると思っている。
社会的なタガが外れて、失われた30年を経て、露見したのは僕たち日本人の意地悪さと醜悪さだった。
他人などどうでもいい。
社会などどうでもいい。
そしてそこに自分も含まれてしまっている。
若手が冷めているのは、僕たちがあまりにも醜悪だから
不幸な日々が続くなら、いっそ世界なんて壊れてしまえばいいのだ。
カタストロフィを心のどこかで望む人達。
そんな僕たち以上の世代の行動をたっぷり浴びて育った若手たちは、心の一部が欠損しているように僕には感じられる。
そして上記したように、僕はそれにネガティブな思いはない。
そりゃそうなるわな、そんな感じなのだ。
でも、その心が完全に機能停止している訳ではなくて、何かのはずみで、それは再起動するはずなのである。
それがきっと「微熱のマネジメント」だ。
丁度良い熱量
僕は時々、下の世代からの熱い信頼を感じる時がある。
だいぶ歳が離れ、おじさんになってしまった僕の何が彼(彼女)らに刺さるのかは未だによくわからないけれど、現時点で思うのは「熱量の丁度良さ」なのではないか、ということである。
僕は寄らないし、呼びもしない。
群れたくない。
仲間もいらない。
でも、同志は欲しいのだ。
繋がらなくていい
仲良くなくて良い。
一緒に行動しなくてもいい。
心のどこかで、志を同じくしてくれればいいのだ。
たまたまの偶然で、僕たちは出会い、そこで楽しく酒を飲む。
でも、だからと言って、そこに縛られなくていいのだ。
共同体とすら言えないくらいの、緩い繋がり。
僕たちは友達じゃない。でも…
このブログだってきっとそうだ。
僕たちは友達じゃない。
どこの誰かもまるでわからない。
でも、きっとどこかしらで繋がっているはずなのだ。
祈りを
僕は微熱程度の熱量を持ってマネジメントを行っている。
それが何のためになるのかはわからない。
琴線に触れるかどうかは運しだいだ。
でも、それだってきっと無意味じゃない。
そう思いたい。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
何らかの困難があると「1つになろう!」というメッセージがどこからともなく現れて、何となくそれに感銘を受けていたりする。
僕はそのような日本的一体感が昔から苦手です。
それはそこにある暗黙の排他性を感じるからかもしれません。
1つになるというのは個々の尊厳を認めていないのと同義なような気がしてしまって、それが全体主義的な傾向を帯びる可能性があること、それに対する恐怖心がないことにも違和感があるのですが、そのような人はこの国ではきっと少数派なのでしょう。
そんな生きづらさを感じながら、でも時にそんな閉塞感を打破したいという若手からの信頼を感じることもある、それが今回書きたかったことです。
僕が求める共同体は、昭和的日本共同体ではありません。
もっと乾いた、でも温かみのある共同体です。
アウトサイドでふらふらしていましょう。