メンヘラ上司にご用心

UnsplashKinga Cichewiczが撮影した写真

メンヘラ彼女

あなたはメンヘラの彼女みたいになっていないだろうか?

そんな書き出しから今回は文章を始めてみる。

多くの「熱意ある」マネージャーたちは、僕からするとメンヘラ的で、「そんなに構うから嫌われるんだよなあ…」と思うことがとても多いのである。

そしてこのような傾向を持つ上司は増えてきている。

感情の浮き沈みが激しく、束縛気味で、時に極端なネガティブ思考となる人。

そんな人がマネージャーになったら、職場環境は一気に悪化する。

でも本人に自覚はない。

「一生懸命」にメンヘラしているだけなのである。

今日はそんなことを書いていこうと思う。

愛憎

メンヘラ上司は愛に飢えている。

それも特に部下からの愛情を求めている。

僕にはそんな風に見受けられる。

そしてこの種の人は愛情が強いので、嫉妬も激しい。

ひと時寵愛していた部下が、ちょっとでも意に沿わないような行動を取ると、一気に敵対視したりする。

とても面倒だ。

でも、「できる」と言われている人ほど、この傾向は強いように感じている。

というか、本当の実力を見抜けない上司におだてられた結果、自分でもできると勘違いしている人に、メンヘラ上司は多いような気がするのだ。

自信がないと愛を欲しがる

これは自信のなさが裏返しにある。

自信がないから慕われたいと思う。

自信がないから愛情を求める。

プライベートなら関係ない。

好きなだけやればいい。

でも、これが職場となると大問題である。

ましてやマネージャークラスがこの種の人だと、そのチームは大変なことになる。

ただそのヤバさに気づいている上司はそこまで多くない。

部下育成に「熱意がある」「一生懸命だ」なんて、アホみたいな評価をされている場合だってあるくらいだ。

憑き物=メンヘラ上司

マネージャーの指導・育成の観点から、職場にお邪魔する時がたまにある。

そこで僕が見ているのが、「空気のピリ付き感」である。

よく言われるように、その職場が健全かどうかというのは、入った瞬間にわかる。

それこそ霊能力者のように、「気」が悪い職場には「何か憑いている」のである。

そしてその憑き物の正体がメンヘラ上司であったりすることが結構あるのだ。

マネージャーの能力はマネージャーになってからじゃないと計測できない

これはひとえに、マネージャーの育成に対する感度の低さに由来する、と僕は思っている。

それも特に初任マネージャーについてである。

僕はプレイヤーとマネージャーは別の能力が求められると思っていて、マネージャーの能力というのは(当たり前だけれど)マネージャーになってからじゃないと計測できない。

だから、最初にマネージャーになった人に対しては、きちんとマネジメントができるのかどうかを測定した方がいい。

でも、現状ではそうはなっていない(ウチの会社だけか?)。

名選手、名監督にあらず

それは(いつも言う話で恐縮だが)日本社会がマネジメントの重要性をあまりわかっていないからだと思っている。

そして測定基準も曖昧だ。

もっと言うと、営業という職種においては、プレイヤーとして優秀であるほど、マネージャーとしては問題があることが多い、と僕は思っている。

というか、ある程度セルフィッシュでなければ、プレイヤーとして大成することは難しいので、そこからの転換、プレースタイルの変化が求められるのである。

自己顕示欲自己承認欲求がなければ、営業のプレイヤーとしては上手くいかない。

でも、それが過剰であると、メンヘラ上司になってしまう。

ここに日本でマネジメントが定着しない1つの要因があるような気がしている。

昭和だったらメンヘラだって許されていたはず

以前であれば、社会的に「メンヘラ的指導=情熱ある指導」と捉えることができたし、多少の問題があったとしても許されるような時代背景があったように思う。

そこには上司と部下という擬制がきちんと機能していた(良いとか悪いとかは別として)。

だから他人に過剰に寄りかかるような人物であったとしても、マネージャーと名乗ることができたのだ。

メンヘラのメンヘラによるメンヘラの為のマネジメント

翻って現代はそうではない。

でも、そのようなメンヘラ的マネージャーとして偉くなった人達がたくさんいて、その下にいる人達をメンヘラ的基準で評価するので、メンヘラ的マネージャーが再生産されていく。

クールなZ世代はそれにウンザリしている。

いいぞ。

僕もZ世代に賛成だ。

逃げる一択

彼(彼女)らは、上手にメンヘラ上司をあしらっている。

でもあしらわれている本人たちは無自覚である。

Z世代の能力は、相手がおかしければおかしいほど、有効に機能するからだ。

もちろん潰されてしまう場合もある。

上司ガチャに外れて、自分の上司がメンヘラだった場合、そこでできるのは適切に距離を取ることだけである。

闘ったって何の意味もない。

ただ被害が拡大するだけだ。

一人で生き残れる戦闘力を

まずはあなた自身がメンヘラ的にならないこと、そしてメンヘラ上司に出会ってしまった場合には、逃げるしかないことを言い添えて今回の話を終えようと思う。

大事なことは自立することだ。

他者(同僚・上司等)がどんな人物であれ、どんな環境であれ、一定の成果を上げるためには、自分の実力を磨き、1人で戦える戦闘力を身に付けておく必要がある。

そしてそれでもどうしようもない時は、無駄な抵抗をせず逃げるが勝ちだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

あるサッカーの本(『サッカー「いい選手」の考え方』、鬼木祐輔著。池田書店)に、「日本語は『私』が視座になることが多い。一方英語は第三者的な視座になることが多い。だから、外国のサッカー選手は客観的事実を共有しやすく、ピッチ全体の状況を把握しながらプレーを選択できるのだ」ということが書いてあって、なるほどなと思ったことがあります。

僕なりの解釈はまたどこかで文章にしたいと思うのですが、今回の本文の話と絡めるなら、「私」に囚われるとメンヘラになってしまう、ということです。

日本は兎角「私」が幅を利かせすぎ。

そしてその「私」は他者からの評価に頼り過ぎ。

僕はそんな風に感じています。

他人の評価に振り回されず、自立していきましょう。