「So What?」の時代に僕らがすべきこととは?

UnsplashVadim Bogulovが撮影した写真

仕事の意味が蒸発した時代

現代は「So What?(それで?)」の時代である。

そんなことをずっと考えている。

仕事の意味が蒸発した、というか、人生の意義が消失した時代。

「それが何になるんだっけ?」という虚無の時代。

一歩間違えれば自死を選びそうになる危うい精神状態の僕が、「我に返るな!」が最近のスローガンである僕が、それでも青臭い理想を掲げながらマネジメントという仕事をしている意味って何なのだろうか?

鬱々とした文章になりそうな気配を感じた方はここで×ボタンを。

「いやいや、確かにそうだよね」と思ってくださった方はこの先へ。

それでは始めていこう。

不要不急という呪い

「不要不急」という言葉が呪いのように僕の頭から離れない。

「僕たちの仕事は不要不急である」

「そんなものなくたって、世界は昨日と同じように回っていく」

コロナウイルスの後遺症。

僕はそれにずっと囚われたままだ。

タスクをクリアした先にあるものとは?

会社から求められる様々なタスク。

そんなものが何になるというのだ?

それをやったからといって、達成したからといって、何の意味があるのだろうか?

いやいや、大丈夫。

別におかしくなったわけじゃない。

平常運転だ。

ただ、この問いに対する答えを持たないと、マネジメントをすることが欺瞞になるのではないか、と僕は思うのである。

嘘つきにはなりたくない

そんなことを真剣に考える必要なんてない?

まあ、確かに。

仕事なんて仕事に過ぎない。

そこまでシリアスになるものでもない。

わかっている。

でも、何というか、僕は嘘つきにはなりたくないのだ。

無意味で不必要で有害なクソ仕事

デヴィット・グレーバー(R.I.P)の「ブルシット・ジョブ」はそんな僕が必ずしもおかしくはないこと、それがある種現代の病であることを、端的に証明してくれた。

「僕らは僕らの仕事が無意味かつ不必要であること、そしてもしかしたら有害でもあることに気づいている。でも、そうじゃないように取り繕わなければならない。そんな自分に懊悩している」

そんな時代に仕事をする意味って何なのだろうか?

それもマネージャーという立場で、他者にそれを求める(強いる)ことってどうなのだろうか?

僕はずっとこの問いに対する答えを考え続けている。

ケアの仕事。維持する仕事。

ブルシット・ジョブの反対側には、「エッセンシャル・ワーカー」がいる。

でも、その人達の社会的・経済的立場は弱いままだ。

そしてそのような「ケア」の仕事というのは、何というか、「何かを生む」仕事よりも下に見られているような気がする(本当は何も生んでいないのに)。

「維持する仕事」よりも「付加価値を生む仕事」の方が大事だと考えられているというか。

現状を維持するだけで、価値があるのでは?

ここに僕は村上春樹の「歩哨」「雪かき仕事」のイメージを付加する。

僕たちは僕たちの現状を維持する仕事、この世界をこのままの状態にしておく仕事をしている人をもっと尊ぶべきなのではないか?

礼儀正しく「日常」を生きようとしている人達を阻む、大きくて邪悪なもの。

それを退ける為に、日々誰に褒められるでも、認められるでもない仕事をしている人。

正に「雪かき」

雪はどんどん振り続けていて、そのままにしておいたら世界は動きを止める。

でも、だからと言って、雪かきをしたところで、現状から何らかのプラスが生まれる訳でもない。

現状維持。

でも、それって、それだけで価値があることなのでは?

愛よりも親切を

僕が敬愛するカート・ヴォネガットは「愛は負けても、親切は勝つ」と言った。

「人生の目的は、隣にいる人に親切にすることだ」とも言った。

僕はこれに心から賛同する。

これは隣人愛ほど押しつけがましくない。

愛や正義、何らかの大義めいたもの、スローガンの類。

そういうことを考えると、何だかアホらしく思えてしまう。

ここにいる意味があって欲しい

僕は虚無のまま歩き続けている。

僕がここにいることには、何の意味もない。

それは揺るぎない真実だ。

でも、意味があって欲しい。

それは祈りみたいなものだ。

そしてその意味というのは、別に大そうなものじゃなくていいのだ。

そんなものを考えるから苦しくなってしまうのだ。

同時代を生きる人への小さな親切

「So What?」の時代に僕らが為すべきこと、それはささやかなこの生活を守る人、同時代を生きる人、への小さな親切である。

僕はそんな風に(今は)思っている。

親切には対価はいらない。

見返りなんて望まない。

ただ、雪かきをするだけ(ちょっと隣の家まで)

ここにいてもいいと感じられること

僕は僕のチームにいるメンバーが少しでも幸福になって欲しいと思っている。

幸福、というと大げさかもしれない。

そこにいてもいいのだ、と思って欲しいと思っている。

今風に言うならそれは心理的安全性ということになるのかもしれないけれど、そういうバズワードじゃなくて、ただ存在していてもいいのだ、という自己肯定感。

それでも、それでも、それでも。

道の行く先はディストピアかもしれない。

船は沈み続けているのかもしれない。

それでも、だ。

僕は「それでも」という言葉が好きで、だからこそ「So What?(それで?)」と問われても、「And yet(それでも)」と言いたいと思う。

Life goes on

人生は無意味だ。

だから何だ?

エンドロールの向こう側。

誰もいなくなった劇場。

掃除婦しか知らない物語。

そう。

それでも、人生は続いていくのだ。

小さな親切(大きなお世話)

僕にできる小さな親切。

それがこのブログなのかどうかはわからない。

でも、もし1人でも、そこにいていいのだと感じて貰えているとするなら、僕がこんなおかしな文章を書く意味もあるのだろう。

というか、そうであって欲しい。

2023年もあなたにとって素晴らしい年でありますように。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

成果を上げることを突き詰めて考えた時に、その障壁となっているのは、実は勤務先やそこにいる上司(だけ)ではなく、「仕事の無意味性」なのではないか、というのがここ最近の僕の悩み(問題設定)です。

多くの人は、そこに無理やりでも有意味性を持たせようとするのですが(例えば富とか名声とか異性とか。将来の不安を煽るというのもそうかもしれません)、少なくとも僕はそれにモチベーションを掻き立て足られることはありませんし、それで成果を牽引するのは難しいような気がしています。

ではそれに変わる物語とは何なのでしょうか?

僕はまだ見つけられないでいます。

ただ、本文でも提起したように、小さな親切の交換によって、「そこにいてもいい」という感覚が共有されること、それ自体に仕事の意味があるのかもしれない、と僕は思っています(仕事の中身は空っぽだとしても)。

愛は難しいですが、親切なら狭量な僕でもできます。

そうやって自分を生き長らえさせていきましょう。