仕事なんて暇つぶしに過ぎない

UnsplashSander Sammyが撮影した写真

身代わり残業の増加で管理職が死んでいる

今日はタイトルの通りで、仕事(もしかしたら人生も)なんて暇つぶしに過ぎないので、深刻に考えなくていい、ということを書いていく。

というのも、管理職の自殺率や死亡率が近年増え続けているという記事(少し古い記事)を読んだからである。

そしてその記事内では、その要因として、働き方改革による「身代わり残業」の影響も大きい、ということが書いてあった。

部下の残業が厳しく規制されている中でも、仕事の量は変わらない。

ならば、それを誰がやるか?

管理職だろう?

その結果、過労や睡眠不足、精神疾患などによって、管理職の自殺率や死亡率が上がっている。

そういう趣旨の記事であった。

気持ちは痛いほどわかる。

でも、「そこまで深刻に考えなくてもいいのでは?」というのが僕からの提案である。

それでは始めていこう。

プレイングマネージャーはデフォ。でもそれって異常なのでは?

プレイングマネージャーは現代日本においては必然である。

そんなことを言われることがある。

言いたいことはよくわかる。

マネジメントに専念できる程、時間の余裕がない。

成果へのプレッシャーも半端ない。

そして部下は働かない。

だから、自分が仕事をせざるを得ない。

よく言われる論理展開だ。

でも、それって正常なのだろうか?

メンタルが不安定でなければ管理職にあらず(笑)

僕は昔から「多数派の論理」みたいなものが苦手で、「みんながそうやっているからお前もそうしろよ」という圧力に対してずっと抗って生きてきた。

それは仕事においても同様である。

「プレイングマネージャー論」が求めるのが「仕事の成果」だとするなら、「どのようなアプローチを取ったとしても、望むべき成果が出ているのであれば関係ないでしょ?」というのが僕の考え方である。

それがたとえ暇そうに見えたとしても。

でも、多くの大人たちは僕のような働き方が気に食わないみたいで、「忙しそうにしろよ!」という圧力を常にかけてくる。

そしてそういう人に限って、メンタルが極端に不安定であったりする。

「メンタルが不安定でなければ管理職にあらず」みたいな風潮。

それってやっぱり異常なのでは?

「メンタルを安定化させる」のは大人の必修科目

「メンタルを安定させる」というのは、大人にとって必修科目であると僕は思っているのだけれど、日本においてはこれを履修(かつ修了)せずに社会人になった人が多過ぎるように感じている。

そういう人達に会うたびに、「お前のメンタルの上下になんでオレが合わせてやらなければならないの?」といつも思う。

もちろん一定のレンジ内のメンタルの上下は、人間なのだから当然あるだろう。

でも、僕から見える多くの人は、明らかに閾値を超えていて、それを正常だと思っている。

僕が診断するなら、間違いなくそれは精神疾患である。

散りの美学?

だから何らかのタイミングによって、一気に矢印が逆に振れて、メンタルブレイクするのだろう。

そして、社会的にもこの種の人を「責任感がある人」なんて形容する場合があるのも僕にはよくわからない。

マネージャーにおける責任感というのは、求められる成果を出すことだろう?

自分や部下を追い込んで、自爆して、その成果を出せない状態にあることに対して、責任感があるというのはおかしいのでは?

僕はいつもそう思う。

日本的「散り」の美学?

そういうの、もうやめにしないか?

働き方改革(笑)

冒頭の記事の身代わり残業の話も同様である。

僕の職場でも、仕事の絶対量は変わらないけれど、残業時間は大幅に削減されている。

もっと言うと、有給消化やコロナ休暇など、「実質的な仕事時間」は大幅に少なくなっている。

でも、求められる成果は変わらない。

それを背負うのは管理職なのか?

僕はそうは思わない。

マネジメントの問題を個人の努力で克服しようとするのが日本社会だ

もちろん、仕事である以上、最大限の努力はする。

でも、それを個人の努力で何とかするのには限界があるし、もっと言うと、これを個人の努力で克服しようとしてしまうことに日本社会の問題があるような気がしている。

これは僕がいつも言う「マネジメント不全」の現われである。

回らない仕事量や高すぎる成果を求めるのは、経営のマネジメントが上手くいっていないからである。

これが当たり前の話として通らないことに問題がある。

昨年J1最下位のチームが、大した補強もなしに、翌年Jリーグ優勝、ACL制覇、CWC制覇なんて無理だろう?

それも「連覇を続けろ!」なんておかしな話だろう?

でも、企業ではそれがまかり通っている。

そんなのナンセンスである。

僕たちは表裏一体なのだ

僕たちは僕たちにできることしかできない。

もちろん最大限の努力はする。

でも、そこには限界もある。

それは1個人で解決すべき問題ではなく、社会全体で解決すべき問題である。

たぶん僕たちは「消費者側」に立った瞬間、「生産者側」に多くのことを求め過ぎている。

それによって、「生産者側」に再度回った時の自分を苦しめている。

それをやめようぜ?

マネジメントを改善しなければ、僕たちはいつまでも不幸なままだ

仕事なんてただの暇つぶしに過ぎないのだ。

1個人でそこまで深刻に考える必要なんてないのだ。

身代わり残業?

切腹的概念?

そういうのもうやめようぜ?

できないことを個人の責任に転嫁せず、社会全体のマネジメントが上手くいっていないというように考えなければ、いつまで経っても僕たちの社会は不幸なままである。

それでいいならいいけれど。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

消費者に対する過剰サービスの削減。

それを許容する社会環境の醸成(消費者として過剰サービスを求めないこと)。

それが僕たちの働き方を改善する方向性の1つなのではないか。

そんなことを僕は思っています。

僕たちは過剰サービスを求める消費者の要望に応える為に不機嫌な労働者として働きながら、その不機嫌さを消費者の立場になった時にそこにいる生産者側の人間にぶつけています。

その不機嫌さをぶつけられた生産者側の人間も、帰る途中に寄ったコンビニで消費者としてそこにいる店員に不機嫌さをぶつける。

そのまた店員も…

このような不機嫌の連鎖によって、僕たちの社会はいつまでも不幸なままです。

それをやめませんか?

本来的にはマネジメントの改善によって、それが実現できることが望ましいのですが、それはもう少し先の話になりそうです。

それなら、僕たちが今できることをした方がいい。

それは目の前の店員(働いている人)に優しくすることです。

「横暴な消費者」という負の連鎖を断ち切っていくこと。

それが僕たちの働き方を変えて、自殺率や死亡率を下げることに繋がる。

そんなことを僕は考えています。

このブログがその一助になれば幸いです。