フルコミットしない働き方

UnsplashAlora Griffithsが撮影した写真

たくさんの「予備役」が生まれる仕組みを

日本型雇用システムにはメリットとデメリットがあって、まだまだメリットはメリットとして機能しているけれど、デメリットも目立つようになってきた。

現在の状況を僕はこんな風に見ている。

そんな中で昨今言われるようになってきたのが、「キャリアの複線化」というものである。

必ずしもゼネラリストにならなくても、組織の中でそれぞれの人間が専門性を発揮できるような環境を構築すること。

それによって各人毎にキャリアが分かれていき、「個性」が尊重できるようになっていくこと

働く場所、働き方などが多様になっていくこと。

結果、組織の生産性が上がるようになること。

良いことだ。

その中で僕が最近考えているのは、ある組織なりチームにフルコミットせずに、1部だけコミットする仕事の仕方もアリなのではないか、ということである。

それぞれの人が本業とも呼べるようなチームに属しながら、他のチームにもちょっとだけ顔を出すようなイメージ。

その累積によって、「予備役」みたいな人がたくさんできてくるというか。

訳が分からないかもしれないけれど、今日はそんなことを書いていく。

評価と報酬は乖離するものだ

評価と報酬(費用と対価)を釣り合わせることは困難である。

「働かないおじさん」論の根底には、人事評価というものに内在する困難性がある。

人がやる以上、評価にバラツキが生じるのはある種仕方がないし、ましてや日本型雇用システムにおいては、年功賃金的な要素がそこにあるので、キャリアの最中には評価と報酬が釣り合わない時期が訪れてしまうものだ、と僕は考えている。

それは個人の責任云々ではなく、構造問題のようなものである。

もちろん、属人的な要素がないとは言い切れない。

それに甘える人はたくさんいるし、そうではなく、きちんと使命を果たそうという人もいる。

でも、システム自体がそうなっていることによって、全体でみれば、そのような傾向になってしまうのはやむを得ないのかな、と僕は考えている。

無意識の「フルコミットメント思想」に追い立てられている

評価と報酬の乖離。

それが一定以上になると(あるレンジを超えると)、僕たちはそこにストレスを感じるようになる。

ただそこにあるのは、「無意識のフルコミットメント思想なのではないか?」というのが今日の話である。

ある一定の期待値があって、その期待値に到達するよう、僕たちは仕事に追い立てられる。

もちろん本来的には期待値という指標に達すればいいので、それまでのプロセスはある程度自由でいいはずなのだけれど、何となく「一生懸命」「全力で」「全身全霊で」取り組まなければならないものとされているような気がする。

それをしないものは「怠け者」である、というか。

アンチ・フルコミットメント・イデオロギー

僕は「課長はヒマそうでいい」とずっと言い続けている。

それはこのような「無意識のフルコミットメント思想」に対するアンチテーゼみたいなものである。

大事なのはプロセスではなく成果だろう?

僕のブログをギュッと潰して、エッセンスだけ抽出するなら、そういうことになる。

でも、「本業」において、ヒマそうに働いていると面白く思わない人が一定数(以上)存在していて、その人たちは上記したような「フルコミットメント思想」に囚われているのではないか、というところに僕の議論は繋がっていく。

全身全霊(笑)?

彼(彼女)らは、「なぜ全身全霊でマネジメントをやらないのか?」と言う。

僕は思う。

「あなたの言う全身全霊と、僕の全身全霊は違う」と。

というか、「全身全霊でなくても、同等もしくはそれ以上のパフォーマンスが出ているなら、何の文句があるのか?」と思うのである。

身も心もあるチームなり職務に捧げること。

それが尊いものであると考えること。

かつてはそれが上手くワークしていた時代があったのだろう。

でも、現代はもう違う。

上手に組織やチームと距離を取りながら、パフォーマンス・ベースで仕事をしていくことが大事なのである。

そして、そう考えた時に、「必ずしも1つのチームにフルコミットメントしなくてもいいのでは?(全体のパフォーマンスが上がるのであれば)」という風に今の僕は考えている。

フルコミットメントはノーコミットメントを生み、僕たちは分断される

フルコミットメントというのは、反対側に「ノーコミットメント」の人たちをたくさん生み、それが「縦割り組織」「官僚制度」みたいなものに繋がっていく。

「それは私の仕事ではない」という言明が、冷たく硬質なものとして、組織の廊下に響き渡ることになる。

セクショナリズムというのは、外と内に世界を切り分けるからこそ生まれるもので、その構成員同士がちょっとずつ交わっているのであれば、そのマイナス面を抑制できるのではないか。

それも単なる顔見知りとか、仲が良いとか、そういうレイヤーではなくて、実質的にチームに所属しているくらいの交わり方をしているのであれば、そこにセクショナリズムが生じることはあり得ないように思う。

20%ルールみたいな感じ。

プロジェクト毎に離合集散を繰り返すことで、その業務を「甘噛み」した人たち(母集団)が増え、軍隊で言う「予備役」みたいな人がたくさんいるようになる、というか。

そうすれば、全くの「初めまして」ではなく、ある程度の状態から仕事を始めることができるようになる。

そんな風に思うのだ。

課題はあるけれど…

もちろんレポートラインの問題など、克服しなければならない課題はあるだろう。

でも、閉鎖的な環境というか、身も心も奉じてこそ一人前、みたいな思想から脱する1つのアイディアにはなるはずだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

フルコミットメントノーコミットメント

それがセクショナリズムを生む。

今回のテーマを書いたことで、僕の中で整理された物事です。

そしてそれに抗う為には、その中間領域にいる人達を一定数生むべきでは?

それが今回の話です。

これは日本型雇用システム(ゼネラリストをたくさん生む)のアップデート版であるような気もしています。

ゼネラルで何が悪い?

僕はそんなことを思ったりもします。

リベラルアーツ的な、でも実務的な。

まだ上手く整理されていませんが、何らかの考えるきっかけになったら幸いです。