シンパシーとエンパシー

UnsplashJon Tysonが撮影した写真

シンパシーは感情。エンパシーは能力。

最近エンパシー(empathy)という言葉をよく聞くようになってきた。

これはシンパシー(sympathy)とは似て非なるものである。

シンパシーもエンパシーも、日本語では「共感」と訳されることがあると思うのだけれど、その意味するところは大きく違う。

シンパシーは、他人と自然と気持ちを共有する(してしまう)という「感情」のこと、エンパシーは、他人の感情を理解する(理解しようとする)「能力」のことである。

シンパシーは「感情」であるので、自然と内側から湧いてくるものである。ということは、そこに努力や訓練はいらない。

エンパシーは「能力」であるので、身に付ける必要がある。そしてそれは、「知的作業」とも言える(コグニティブ・エンパシー)。

現在の日本社会に必要なのは、(どちらかと言えば)どちらなのか?

今日はそんなことを書いていく。

シンパシー型社会としての日本

「共感は良いことだ」

議論の前提として日本にはそんな雰囲気があるような気がしている。

誰かの気持ちを「察し」たり「慮っ」たりすることは、無条件で望ましい、というか。

逆に言えば、それができない人は、人としてどうなのか(ある種サイコパス的な)、という感じというか。

このような「お気持ち」の表明は、日本社会においては、大前提のもの(キホンのキ)として置かれているような気がする。

そしてそれが「美徳」であるポジティブなものである、というイメージ。

僕たちは同じ釜の飯を食う仲間で、同じ価値観を共有し、ある出来事に対して同じような反応をすべきである、みたいな「村社会的な」感覚

それは「自然と湧き上がるものではならない」「そうできることが社会の構成員としての入構証である」というようなある種の強要みたいなもの。

そういう意味では、日本社会というのは「シンパシー型社会」と言えるのかもしれない。

何か大きなコトが起きると、僕たちはすぐに「絆」「繋がり」みたいな言葉をお題目に掲げ、「1つになること」「一致団結すること」に意識が向いていく。

そしてそこに馴染まないもの馴染もうとしないものを排除しようとする、というか。

ある種の全体主義的傾向。

そして議論は、「日本は欧米の個人主義とは違って、集団主義だ」みたいなものに繋がっていくことが多い。

日本は究極の個人主義・利己主義社会だ

でも、僕はそう思わないのだ。

日本は究極的な個人主義だと僕は思っている。

それは「迷惑をかけたくない」「迷惑をかけるな」という言葉に現れている。

「迷惑をかけたくない」という言葉は、一見集団の利益を慮っているように聞こえるかもしれないけれど、裏を返せば「迷惑をかけられたくない」ということを言っているわけで、「自分のことは自分でやれよ」という「遮断」「断絶」の表明である、と僕は思うのだ。

これが前段の議論と組み合わされると、「ひとりの社会」が出来上がる。

僕たちはお互いを察し合い、慮り合っているけれど、それは実は自分が誰にも煩わされたくないからであって、そういう意味では、日本は究極の個人主義社会(かつ利己主義的社会)ではないのだろうか、と僕は思うのである。

共感は先天的能力として具備しているべきだ、という息苦しさ

これは会社という組織においても同様である。

僕たちは「同じ会社」という集団主義的なイメージを持ちがちであるけれど、そこに底流しているのは「個人主義」であって、だからこそ僕たちは「捻じれている」のではないか、そんなことを思うのである。

そしてその集団主義的なイメージは、「シンパシー」から生じている(生じさせられている)というか。

「共感できることが尊い」という言明は、本来は「能力」の話として語られるべきものであるはずなのに、先天的能力(「感情」)として具備しているべきである、という感じというか。

ある種の「優勢思想」というか。

それを持たないものは集団から「排除する」という捻れ(個人主義)、が僕たちの社会(会社)を息苦しくしているのでは?

そんなことを思うのである。

そして、議論はエンパシーに繋がっていく。

エンパシーとは想像力だ

僕たちには「エンパシー」が必要なのだ。

エンパシーは「能力」だから、先天的に備わっていなくても構わない。

訓練して身に付けられるものである。

そして、ここには「想像力」も関わってくる。

違う価値観を持った人に対して想いを馳せる能力。

同質的でないものに対して、共感はできないかもしれないけれど、理解はできるようになること。

均質の感情を持つべきだと強要される社会

「異物」に対して、僕たちはシンパシーを感じることはできないかもしれないけれど、エンパシーを持つことはできるはずだ。

「自分とは違う他者」に対して苛烈に非難する傾向というのは、レイシスト達を例に挙げるまでもなく、僕たち人間の性向とも言えるものなのかもしれない。

それに抗う「能力」

無条件で、均質的に「そう感じるべきだ」と感情を強要される日本社会。

でも、それは「迷惑をかけられたくない」という個人主義の裏返しで、究極的には「ひとり」に分断された社会。

ダイバーシティ?

笑っちゃうね。

感情に拠らない共感を

「感情」に拠らない共感。

ちょっとだけはみ出ること。

そしてちょっとずつ交わり合うこと。

でも、強制はしないこと。

僕たちがこの窮屈さから逃れるヒントはそこにあるような気がしている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「感情」型社会としての日本。

僕たちはお互いに「迷惑をかけない」ように「空気を読み合って」いる(ハイコンテクスト)。

究極的な個人主義かつ利己主義的社会。

書いていて憂鬱になる言葉ばかりです。

それを打ち破る為には「感情」に拠らない「共感」が必要です。

知性を働かせていきましょう。