他人の評価は水物

UnsplashTerry Vlisidisが撮影した写真

他人の評価に一喜一憂する必要はない

仕事に評価は付き物である。

では、その評価というのは信用に値するか?

まあまあ、というのが僕の答えである。

そして、運もあるよ、ということも付言しておきたい。

上司ガチャという言葉がこれだけ世間に浸透したのは、上司というのはその程度のものであるということが、働いている人達にとって、とても良く共感できる種類のものだったからだろう。

また、マネジメントという仕事を8年くらいやっている僕からすると、上を見ても、横を見ても、下を見ても、人を見る目がないマネージャーは想像よりもだいぶ多い、とも思うのだ。

だから、あまり他人の評価に一喜一憂せず、いい仕事をしたほうがいい(いい仕事をすることに意識を向けた方がいい)、というのが今日の話となる。

もう結論は出ているような気もするけれど、それでは始めていこう。

僕の通信簿には「普通」がない

このブログを定期的に読んで頂いている方ならよくわかると思うけれど、僕はとてもクセの強い人間である。

結果として、他人からの評価は大きく変動しがちである。

もう少し正確に言うなら、「とても良い」「とても悪い」しかない(普通がない)、ということになるかもしれない。

好きな人はとても好きだし、嫌いな人はとても嫌い。

それが僕が自分で思う他人からの評価である。

僕は僕の嫌いなところが嫌い

これは自分が自分を評価する際にも同様だ。

僕は自分自身とても好きなところがある反面、とても嫌いなところがある。

そして、残念ながら、とても嫌いなところはどうやっても改善できない。

諦めている訳ではないのだけれど、何年も格闘してきた結果、「やっぱり難しいな…」というのが正直な感想である。

そういう意味では、他人が僕のことを「とても悪い」と評価する気持ちはよくわかる。

僕だって好き好んでそうやっている訳ではないから(じゃあ、改善しろよということなのだろうけれど)。

ノリや気分のせいにしようぜ?

そのようにクセのある僕が、様々な毀誉褒貶を経て思うのが、他人の評価なんてその時の気分やノリによって変わるものなので、そこまで深刻に捉えなくていい、ということである。

もちろん、反省はしなければならないし、改善できるところは改善しなければならない。

でも、どうやっても無理なものもある。

もっと言えば、改善したくないところもある。

「じゃあ、どっちを取るのか?」というのが今日の話である。

呪文のように唱えることで身を守っているだけ

以前にも書いたかもしれないけれど、僕は「いい仕事」をすることを優先順位の第1位に置いている。

それ以外のものは、優先順位が下がる。

となると、他人からの評価も優先順位は下がるわけである。

こうやって書くと、唯我独尊傍若無人みたいなイメージを持たれる人もいるかもしれないけれど、そんな強さはなくて、色々な日々の小言や苦言みたいなものに心を痛めることはあるけれど、「そんなものは水物だ」と念仏のように唱えることによって、自分のメンタルを保っている、というのが、実際のところである。

僕だって、もちろん人からの評価は気になる。

でも、当てにはならないな、とも思っている。

それなら、気にする必要なんてないよね、というところに僕の議論は繋がっていく。

同一人物からの全く違う評価

ある行動には、良い評価悪い評価が両面付きまとう。

これは僕にとってはとても不思議なことである。

それも違う人同士からの評価であればまだ理解できるけれど(ある人は良いと言い、ある人は悪いと言う)、同一人物からそれをされることも多分にあるので、僕は本当によくわからなくなるのだ。

あれ、この前は逆のことを言っていませんでしたっけ?

さては、記憶喪失ですか?

そんな冗談みたいなことが僕の身には降りかかるのである。

いや、冗談みたいと言ったけれど、結局のところそんなに真剣に他人のことを考えている人なんていない、というのが現実なのだろう。

先ほども書いたように、そんなものはノリに過ぎないのだ。

その時の気分、感情に左右されているだけなのである。

もちろん傾聴に値する人物からの指摘やアドバイスはしっかりと真正面から受け止める必要があるけれど、それ以外の人からの評価はテキトーに受け流していい。

それよりも目の前の仕事を良いものにすることに全力を注いだ方がいい。

それが僕がサラリーマンを長くやってきて思うことである。

他者に自分を預けるな

他者に価値基準を置かない(預けない)こと。

日本社会では難しいことなのかもしれない。

日本には「世間」というものがあって、そこでの評価が自分の評価である、という感覚があまりにも体に染みついてしまっているから。

そして、会社というのは、それが濃縮されたようなものであるから。

でも、そこから半歩でも踏み出せた(はみ出せた?)時、仕事というのはもう少し楽しくなる。

仕事を自分の手に取り戻すことができるようになる。

もちろん、そこで感じる楽しさなんてものは、ただの自己満足に過ぎないのかもしれない。

でも、そんなこと言ったら、人生なんて結局のところ自己満足の連続だろう?

自分が思う信念を(意固地にならず)貫くこと。

そうやって何とか生き抜いていこう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

大人になったらもう少しマトモな人間になれるのかと思っていたら、おじさんになってもガキのままの自分がそこにいて、吐き気がするくらい嫌になることが多々あります。

じゃあ、それを自分で何とかすればいい。

それができれば、苦労はしないんだよな。

というか、できないから、このままのオレなんだよな。

甘えに過ぎないことを重々承知しながら、そんなことを思います。

そんな僕が他人からの評価に一喜一憂しながら、何とか同一性を維持する為に唱えている呪文が今回の話です。

参考になれば幸いです。

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