プチ・ストライキくらいならやってみたいぜ

UnsplashMarkus Spiskeが撮影した写真

会社の酷い仕打ちに対抗するために

欧米における大規模ストライキの映像を見ると、単純に「すげーな」と思う。

そして同じ職業の人たちが会社という枠組みを超えて団結していることに、日本との違いを思う。

企業別労働組合企業横断的労働組合

僕が務めている会社にも労働組合はあるようけれど、実際に何をやっているのかよくわからないし、少なくとも何か我々の為になっているような実感はない(御用組合)のが現状である。

といっても、別にサボタージュしたいとか、我々労働者は団結しなければならない(マルクス主義的な)とか、そういうことを主張したい訳ではない。

ただ、会社という組織で働いていると、あまりにも酷すぎるというか、ナメてねえかと思う時がある。

そんな時に、プチ・ストライキができたら、それも同じ職業の人たちが一斉にできたら、多少は状況が改善するのではないか?

そんなことを思ったので、今日はそれについて書いていく。

日本は超個人主義的社会だ

以前に、日本は超個人主義的社会である、というような趣旨のことを書いた。

一見日本は集団主義のように見えるけれど、それはあくまでも個人が他者と関わり合いを持ちたくないからそう見えるだけであって(「迷惑をかけたくない」という集団を慮っているようなセリフ→実は「迷惑をかけられたくない」という遮断や断絶の表明)、その成れの果てが現在のような「ひとり」が複数いる社会になっているような気がしている。

そこに政治的な意図があるのかどうかは僕にはわからない(個人が分断される方が統治はし易いだろうとは思うが)。

ただ、そうやって、僕たちはそれぞれが「自己責任」で社会と向き合っている(自己責任論も、超個人主義的社会を現す大きなテーマであると思うが、今回は触れないでおく)のが現代という時代である。

自己責任という呪いの言葉

そして日本は集団から外れた人間に対して、必要以上に強く当たる傾向がある。

本来は超個人主義なのに、集団に馴染もうとしない人は「輪を乱す」と糾弾する。

それはその「乱された輪」によって混乱が生まれ、その混乱によって「迷惑をかけられたくない」からである。

僕たちが羊のように黙って集団に従うのは、それが集団の利益になるからではなく(もちろん全くないとまでは言わないが)、単純に個人にとって面倒くさい事態に巻き込まれたくないからである。

そうやって、僕たちは1人1人「分断」されていく。

何か起きれば、「その人の責任」

その累積が僕たちの社会を不機嫌な、ギスギスしたものにしている。

僕はそんな風に思う時がある。

理不尽我慢合戦

これは会社という組織においても同様だ。

理不尽な指示や命令。

「お前の代わりなんていくらでもいる」という呪いの言葉。

そうやって、僕たちはやりたくもない、意味があるとはとても思えない仕事を遂行していく。

そしてそれを正確かつ無慈悲に遂行できる人(官僚的な人物)が評価されていく。

勝ち続けられる人にはとても良い社会だろう。

いや、勝ち続けている人も勝ち続けなければならない社会だから厳しいか。

とにかく、僕たちは個人戦をずっと戦い続けることになるし、同僚たちと競争し続けることになるし、結果としていがみ合い続けることになるわけだ。

如何に理不尽に耐えられるか競争。

それができたものが成功者。

そりゃ団結なんて無理だよな。

成功者は幸せそうじゃない

僕は会社の中で「成功者」と言われている人たちの、総じて眉間にしわが寄っている状態を見て、「ああはなりたくないな」と思う。

全然幸せそうじゃないのだ。

少なくとも機嫌が良さそうには見えない。

彼(彼女)らは、自身の成功の為に、その不機嫌を撒き散らす。

でも、それに抗う術は僕にはない。

僕たちは分断された個人だから。

抗ったら、脱落するだけだから。

最終手段は、「無敵の人」になるだけだから。

それはあまりにも酷だろう?

呪いの言葉に対抗する為に

僕は現代にはちょっとした共同体みたいなものが必要だと思っている。

でも昭和時代みたいにウェットなものじゃなくて、都合の良い時だけ団結するくらいのドライな共同体。

それを夢想している。

「お前の代わりなんていくらでもいる」という言葉に対して、「いないぜ?」とニヒルに笑えるくらいの共同体があればいいな、と思っている。

それはたぶん企業内組合じゃないし、企業横断的労働組合でもないような気がする(もちろんそれでも今よりはだいぶマシだ)。

もっと、価値観や思想に基づいたもの。

理想主義的であることは否めない。

でも、何というか、クラウドファンディングくらいのノリで、賛意や反意を示せたら、それも集団で出来たら、僕たちのこの苦境は多少はマシなものになるのではないか?

僕はそんなことを考えている。

個人主義の国の団結。集団主義の国の分断。

1日だけでも全社員が会社に行くことをやめたら?

それも同じ職業の人も、その予備軍的な人も一緒にやったら補充もできないのでは?

アナーキーだし、本意ではない。

「でも、それくらいしなければわからないのでは?」とも思うのだ。

欧米(欧と米はだいぶ違うが…)の人が普通にやっていること。

個人主義的だと言われる人たちの団結と、集団主義的だと言われる人たちの分断。

(いつも通り)よくわからない話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

個人主義は個人が確立しているからこそ成り立つ。

そして個人が確立しているから、集団性に力が生じる。

でも、日本はそうではありません。

僕たちは未熟なまま、思春期の中学生のように、ただ強がってひとりひとり個人戦を戦っています。

結果、力を持たない

そして、上手に甘えることができない。

自分のような個人主義者が溢れる社会なんて信頼できないから。

自分のような人間が増えることに嫌悪感を覚える社会は間違いなくディストピアです。

でも、僕たちはそれを何故か望んでいる。

通勤電車に乗っている不機嫌な表情の人たち。

繋がりなんて微塵も感じられない、閉じた「世間」に生きる人々。

共産主義は大嫌いですが、もう少しどうにかならないか、と僕は思っています。

隣人愛よりも親切を。

機嫌良くいきましょう。