「きちんとやる」の有害性

UnsplashAgê Barrosが撮影した写真

きちんとやり過ぎると害悪になりえる

きちんとやることは良いことである。

皆さんはそのようにお考えでしょうか?

多くの人はこの問いに「はい」と答えると思う。

でも、ことマネジメントにおいては必ずしもそうとは言えないのではないか、というのが今日の話である。

もう少し正確に書くなら、きちんとやることは良いことではあるが、それが行き過ぎると害悪になりえる、だからそれに対して自覚的であるべきだ、ということになるのかもしれない。

それでは始めていこう。

良く言えば「よきにはからえ」、悪く言えばテキトー。

始めに断っておくが、僕はテキトーなマネージャーである。

細かい話や精緻な数字みたいなものは正直どうでもいいとすら思っている。

それよりも大枠が間違っていないのか本質的にズレていないのか、そちらの方が気になるタイプである。

「よきにはからえ」と言えば聞こえはいいかもしれないけれど、単純に興味がないだけなのだ。

そんな僕であるが、マネージャーという仕事をしていると、「きちんとやる」ことを求められる場面が(結構な頻度で)訪れる。

その度にウンザリしながらも、求めている人たちの機嫌を損ねない程度には「きちんとやる」ことを心掛けている。

ただ、それがあまりにも過剰になる時がある。

そこまでやる必要があるのか、と思える時がある。

そんな時に、今日のテーマにあるように、その「有害性」について感じるのだ。

優秀な人の、間違った優秀さの使い方

僕の会社には優秀な人が多い。

その中でもマネージャー職(以上)の人たちは、その優秀さが際立つ。

ただ、時々その優秀さの使い方を間違っているように感じるのである。

彼(彼女)らは(僕からすれば)厳密性を非常に重んじる。

まるで職人のように、精密さを過剰に求めていく。

もちろん悪いことではない。

必要じゃないとも言わない。

でも、その費用対効果というか、コストパフォーマンスというか、は吟味した方が良いと思うのだ。

もっと言えば、それをやることによる弊害、マイナス面についても考慮すべきであると僕は考えている。

計数管理オタク

例えば、営業という仕事においては、日々売上などの数字を管理している。

日次ベース、週次ベース、月次ベースなど、それぞれのターム毎の数字を基に次の営業活動を策定する、というのはどこの企業だってやっていることだと思う。

そして、その数字には、計測時期の関係によって、それなりのズレが生じるものでもあると思う。

そのズレ方が大きすぎるのは流石に問題ではあるけれど、そこそこ合っていれば、営業活動の策定において、的外れな結論が出ることは考えづらい。

また、各人毎の成績についても、大体の傾向がわかっていればいいというのが僕の考えである。

ただ、これを物凄く精緻にやりたがる人がいる。

それこそミリ単位、ミクロン単位で、厳密にやらなければ気が済まない人がいる。

気持ちはわかる。

それによる不公平感を是正したいという正義感にも共感する。

ただ、あまりにもそこに拘ると、本来の営業活動に支障が生じるというか、本末転倒になるような気がするのだ。

あなたはそれで成功したのだろうけれど…

これは何も計数管理だけの話ではない。

細部に異常なこだわりを見せる人はとても多い。

その度に僕はその人たちを「秀才」扱いする。

もちろん優秀なのだろうし、それによって成功もしてきたのだろう。

ただ、多くの部下たちはその人たちほど優秀ではないし、それをやることによってモチベーションが下がったりもすることには自覚的であるべきだ、と僕は思うのだ。

囚われの身?

秀才たちの特徴は、成功の方程式を持っていること(持っていると思っていること)である。

これをこうやれば効率的に成果が上がる、ということを彼(彼女)らは自分の経験から持っている。

それ自体は悪いことではない。

それを部下に適用しようとすることも悪くない。

ただ、そこに囚われ過ぎるのは違うように思うのだ。

「べき論」と「成果」のバランス

もちろんこだわりは大事だ。

でも、それよりも大事なのはパフォーマンス(成果)なのである。

僕がマネジメントという仕事を続ける中で気づいたのは、「べき論」と「成果」のバランスを保つことができる人はそんなに多くないのだな、ということである。

何かをすべきだ、という人はとても多い。

先ほどの例のように、自分のやり方を貫く人たち、そうじゃないと気が済まない人たちは無数にいる。

でも、そのやり方でパフォーマンスが上がらなかった時に、べき論を改めようとする人は殆どいない。

「やり方が違う」であるとか「気持ちがこもっていない」とか、「戦略は間違っていないのだけれど、その作法が違う」、というように考えてしまうようなのだ。

簡単に言えば、「部下が悪い」となりがちなのである。

僕はその度に「本当か?」と思う。

大事なのはそれを部下にやらせることによって出る「成果」の方であって、その「成果」から逆算して考えるなら、そもそもの戦略が間違っていたのではないかと思うのである。

その戦略が例え机上では「正しい」ものであったとしても。

それよりも、現有メンバーの戦力を考え、多少の妥協をしながらも、成果を出す方に意識を向けた方が有益であるように思うのだ。

弊害もあるぜ?

自分の考えを貫き通すのは悪いことではない。

きちんとやることの有用性は僕だって認識している。

「でも、そこには弊害もあるぜ?」というのが今日の話である。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

本文中の「秀才批判」とも言えるような書きぶりを見ると、「さぞお前は天才なのだろうな」と思われる人がいるかもしれないですが、これは「同族嫌悪」によるものです。

僕は日本型教育が生んだ「秀才主義者」の一人です。

でも、それが嫌でたまらない。

そこから逃れたくて仕方がない。

その為の方策を、七転八倒しながら、自分なりに見つけようとしています。

常識を疑え。

そんな格好いいことは僕にはできませんが、そうありたいと思っています。

どうか見捨てずに、これからも読んで頂けたら幸いです。