自分が思っているよりも言葉は届いているもの(と信じよう)

UnsplashJoanna Kosinskaが撮影した写真

自分の言葉に重みなんてあるのか?

マネジメントは言葉を介した仕事である。

そしてその言葉には重さが必要である。

でも、自分の言葉に重みがあるかどうかなんてわからないし、自信もない。

それは僕だってそうである。

ただ、それは想像しているよりもマシなんじゃないか、そう信じてみてもいいんじゃないか、というのが今日の話である。

だからこそ、ためらわずに、自分の思っていることを自分の言葉で語らなければならない。

それが巡り巡って、自分の言葉に本当の意味での重みを付与することに繋がってくる。

そう信じて、今日も話を始めていく。

ポジティブが前提のコミュニケーションが苦手だ

社内SNSチャットツールのようなもの。

リモートワークが当たり前のものになってから、この種のコミュニケーションツールが以前よりもその存在感を増しているように思う。

その利点は僕にも理解できる。

でも、その中で交わされている言葉には何となく違和感を覚えるのだ。

「SNS語」というか、「ポジティブな言い回しを前提としたやり取り」というか、そういった印象を感じるのである。

「いいね!」文化もそうだと思うが、この種のポジティブ・インフレーションが僕は苦手である。

チャットツールは軽いからいい

いや、その中でネガティブな話が交わされるよりはずっとマシ、それはその通りだと思う。

ただ、何というか、深みというか重みみたいなものは生じないツールであるように思うのだ(というか、だからこそチャットツールはその価値があるのだろう)。

いくらチャットツールで言葉を尽くしたとしても、伝わらないものがある。

そこでどんなに素晴らしいことを言ったって、チームの体温が上がらないことはある。

僕はそのように思うのだ。

重い言葉は今風じゃない。でも渇望も感じる。

では、その空白を埋めるためにはどうしたらいいのか?

ある種の「重い言葉」を使う必要がある、というのが僕の考え(というか必然的帰結)である。

でも、この種の「重い言葉」は今風じゃない。

流行らないし、敬遠されるものでもある。

ただ、一方で、その種の言葉に対する渇望みたいなものを感じる時もあるのだ。

「親父の小言」はNGだけど、「兄貴のアドバイス」はギリギリOKというか。

もちろん説教くさくなってはいけない。

でも、シリアスではある必要がある。

そして、そのシリアスさに自分自身が照れてはいけない。

微妙な温度感とニュアンスではある。

ただ、それがないとチームの雰囲気は良いものにはなっていかない。

クサい言葉と紙一重

これは一歩間違えれば、「クサい言葉」になってしまう。

というか、なってしまっても良いのだと思う。

それを自分が本当に信じているのであれば。

ただ、その「クサい言葉」を自分が信じていないなら、口先だけで話すのであれば、それはやめた方がいい。

「何が違うのか?」そう思われる方もいるだろう。

説明は難しい。

空気に載せた時の感覚が違う、そんな感じなのだ。

誰も僕の話なんて聞いていない。か?

大勢のメンバーがいる前、例えば会議の場面などで、僕は時にこの種の「重い言葉」を使う。

殆どの人は顔も上げず、手元にある資料に目がいったままである。

何人かは目が合ったり、時に頷いてくれたりするけれど、大半は聞いているのか聞いているのかわからないような感じ。

アウェーとは言わないまでも、「早く終わらねえかな」と思っているのだろうなというシチュエーション。

その中で、時に僕は「重い言葉」を使う。

自分のことを振り返っても、当時その種の言葉を使っている上司の話なんて聞いていなかったし、当然今そこにいる人たちも聞いていないんだろうな、と僕はずっと思いながら話をしてきた。

でも、そうとも限らないのではないか、というのが今日の話である。

実際に自分の言ったように動く人たち

僕の話は僕が思っている以上に、そこにいる人たちに届いている。

その人たちの言葉遣い行動が、(勝手な思い込みかもしれないけれど)ちょっとずつ変わっていく、そのように感じるのだ。

もちろん、全員ではない。

届く人は少数だ。

でも、自分が思っている数よりは多い。

だから、諦めてはいけない。

それが僕が今日伝えたいことである。

テキトーなことを言って逃げるのは簡単

無反応な聴衆。

その前で何度も何度も「重い言葉」を使うことは、気が滅入ることではある。

テキトーなことを言って、傷つかないようにする、そのような選択肢ももちろんあると思う(実際に僕はそのようにしていた時期もある)。

でも、恐れてはいけないのだ、たぶん。

クサいことだって言わなくちゃいけないのだ。

恥ずかしさもあるが…

このブログだってきっとそうだろう。

気取った言い回し、読み返すと赤面してしまうような言葉遣い、それが散見される。

一応見直したりはするものの、その時の温度感やライブ感みたいなものを失いたくない気持ちもあって、そのまま掲載したりもしている。

時にそれが嫌になったりもする。

でも、そんな時に「励みになっています」とか「明日も頑張ろうと思います」というようなメッセージを頂くと、「無駄ではなかったのだな」と思えるし、「続けていこう」と思えるのだ(いつもありがとうございます)。

時代錯誤の重い言葉で

僕の願いは、少しでも「いい仕事ができた」と思える人を増やすことである。

その為に現場でも、ブログでも、僕はこうやって時代遅れの「重い言葉」をこれからも使っていこうと思う。

引き続きご愛顧頂けたら幸いである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

1対複数のコミュニケーションが昔から苦手です。

でも、マネージャーはそういう場面が多い。

その度に、テキトーに言葉を濁して、それっぽいことを言って、自分の言葉が届かないことのショックを和らげようとしてきました。

でも、そんな程度の言葉ですら届いている部下がいて、それを感謝されることも少なからずあって、今回のテーマみたいなことを思った、という次第です。

「何かを言っているようで、何も言っていない言葉」との違い。

それが何なのかは僕にはわかりません。

でも、その違いを出したくて、こんな駄文を書き散らしている訳です。

呆れずに、これからもお付き合い頂けたら幸いです。