抗・シャーデンフロイデのマネジメント

UnsplashArt Rachenが撮影した写真

他人の不幸は蜜の味

僕は(社内では)若くしてマネージャーになったので、他人からの「あいつ早く没落しねえかな」という想いにずっと悩まされてきた。

その当時の上司や同僚などから、(被害妄想もあるだろうが)様々な嫌がらせを受け、「こんなことになるならマネージャーになんてなるんじゃなかったなあ…」といつも暗い気持ちで仕事をしていたくらいである。

そこから8年ほど経って、いっぱしの中年マネージャーとなった僕が思うのは、「せめて自分は他人の不幸を待つようなクソみたいな奴にはなるまい」ということである。

他人の不幸は蜜の味。

露骨にはやらなくとも、軽く足くらい引っ張ってやれ。

そういう人たちが社会には充満している。

その人たちから逃れ、機嫌良く仕事を続けていく為の方法論を今日は書いていこうと思う。

濃い目の味付け

今日のテーマである「シャーデンフロイデ」

これは「他人が不幸や苦しみ、失敗などに見舞われたと見聞きした時に生じる喜びなどの快の感情」のことである。

日本語で言うなら、他人の不幸は蜜の味。

ネットスラングで言うなら、メシウマ。

そのような感情は誰しも(もちろん僕だって)持ち合わせている。

でも、日本社会はその濃度が特に「濃い目」であるように思うのだ。

一億総不幸待ち状態

もちろん、シャーデンフロイデという言葉がドイツ語から来ているように、外国にだってこの種の感情はあり、そう言う意味では人間というのは本来そういう生き物であると言えるのかもしれない。

ただ、他者との比較の中で相対的対置位置を決めることが多い(というかそれしかない)日本社会においては、この感情がより強いように感じるのである。

もう少し言うなら、湿っぽいというか陰湿というか、表には出さないけれど、それを物凄く心待ちにしているような、暗い感情をそこかしこに感じてしまうのだ。

一億総不幸待ち状態。

一旦Goサインが出たら、寄ってたかって袋叩きにするあの感じ。

僕はそれがとても苦手である。

自分を上げるよりも、他人を下げる方が楽

自分は自分、他人は他人。

そう言うのは簡単だけれど、本心からそのように思えるようになるにはそれなりの修練が必要になる。

ましてや自分はそう思っていたとしても、他人はそうは思っておらず、どうやったって足を引っ張ろうとする人に捕まってしまうのが日本社会だ。

そして僕もその例外ではなかった。

課長になる前も、課長になってからも、他人からの妬み・嫉みの類、あからさまなものからそうでないものまで、結構な数のヘイトを浴びてきた。

その度に思うのは、自分が成長するよりも、他人を蹴落とす方が楽だし、気持ちが良い、という人間のクソみたいな部分に対する嫌悪感である。

これは会社や学校のような閉鎖空間で特に顕著になる。

その中における相対順位を人間というのは必要以上に気にするから。

まずは自分から

人間はいじめが大好きだ。

それを変えることはできない。

では、どうやったらそこから逃れることができるのか?

まずは自分が他者に対してそう思わないようにする人間の本性がたとえそうだとしても、それをできるだけ内側に封じ込め、漏らさないようにする、ということが挙げられる。

他人の不幸は蜜の味であったとしても、自分の状況が何か変わる訳ではない。

その一瞬は甘くて美味しいかもしれないけれど、別にその甘さを感じたとて、苦い自分の現実が変わる訳ではない。

その種の残酷さをキッチリと抱きしめておくこと。

自分自身の蒙昧さ、どうしようもなさ、器の小ささetc.

そういったものと正面から向かい合うこと。

そしてそのような自分すらも包摂し、赦すこと。

それがシャーデンフロイデから逃れる術である。

諦念と受容

自らを愛す、というと言葉はクサくなるけれど、自分は自分でしかないというある種の諦念と受容は、出発点を定めることに繋がる。

他人と比べたってしょうがない。

僕はこの僕でしかない。

でもだからといって、絶望する必要はない。

僕には向かうべき方向があるから。

人間には志向性が備わっているから。

そう思えたら、シャーデンフロイデを抑えることができるようになる。

そして、そのような人が増えれば、この社会はもう少しだけ生きやすくなる。

僕はそのように思うのだ。

子どもから大人へ

これはもう少し簡単に言うなら、社会に「大人」を増やすことである。

僕が学生から社会人になって良かったことの1つに、「尺度が多様化したこと」がある。

学生時代は狭いヒエラルキーの上下しか世界がなかったのに対し、社会にはそれこそ無限の尺度がある。

誰が優れているか、劣っているかなんてものは、見る角度の差でしかない。

それを無理やり学生時代のノリに押し込もうとするのが、多くの「子ども」たちである。

ダイバーシティと自らが大合唱する中で、他者の多様性を微塵も認めようとしない多くの「子ども」たち。

永遠の内輪受けの中で、自分自身が努力することなくマウンティングができるような環境に安住するクソみたいな連中。

そいつらを黙らせる為に、僕は成果を出し続けるつもりだし、このようなブログも書き続けるつもりだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

頼むから放っておいてくれないか。

相対的立ち位置を気にするくせに、自分が成長する努力は怠り、他人の足を引っ張ることには目がない人たちばかり。

そういう現実に嫌気がさしています。

そしてそういう人たちは自己効力感を感じることもないのだろうなあとも。

他人は他人に過ぎません。

自分なりの目的地に向かって、日々精進していきましょう。