目的至上主義社会
人間は目的を持たなければならないのか?
「若手にキャリアの話をして欲しい」という上司からのオーダーがあり、何を話したら良いかと自分なりに考えている。
若手に有用なキャリア論とは?
ある程度のことは前回のブログに書いたので、今回はそこからちょっと離れて(レイヤーを1つ上げて)、「そもそも目的って必要なのか?」ということについて書いてみようと思う。
というのも、キャリアの話をして欲しいという依頼の中身というのが、「何らかの目的を人間は持たなければならない(目的がないから成長していないのだ)」というようなある種の強迫観念みたいなものを内在しているように感じたからである。
これは学生時代に僕が覚えていた違和感に似ている。
どんな学校に行きたいか?
どんな会社に入りたいか?
あなたの夢は何ですか?
そう問われる授業が、小学校でも中学校でも高校でもあったような気がする。
その度に僕は何とも形容しがたい嫌な気分になったものである。
今日はその嫌な気分を文章化してみようという試みだ。
具体的なマネジメントの話とは異なるかもしれないけれど、お付き合い頂けたら幸いである。
それでは始めていこう。
コスパ思考
「ある目的地があって、そこに最短距離(と最小労力)で行くことが至高」
若手に限らず、多くの人たちから感じるのは、このような「コスパ思考」である。
となると、必然的に目的地までの道中というのは、手段となる。
どこかの目的地に辿り着くまでの手段を最適化すること。
それこそが賢い人間であるという思考。
まあ否定はしない。
でも、何となくつまらないな、と思うのだ。
目的にとって無意味なことはやらなくていい?
これは「そんなことして何の意味があるのか?」という問いにも関係している。
多くの場面(特に若手から)で聞かれるこの質問は、目的地に向かう道中において、そのこと(例えば仕事)は私が叶えたい目的にとって無意味である(だからやらないでいい)、という意味合いで使われる。
ただ、キャリア(これは学生の場合は進路という言葉でもいい)を考えた場合、その質問は別の意味を帯びる(ように僕には感じられる)。
というのは、キャリアというのは、「ある地点に辿り着いたらゴール」ではなく、そこからも続くから、である。
そして、重要なのは、「辿り着いたその先で何を為すか」なのだ。
Life goes on.
これは「いつまでも幸せに暮らしました」という物語の終わりに出てくるセリフに対する違和感にも繋がってくる。
物語が終わっても、生活は続くのである。
そして大事な(かつ長い)のは生活なのではないか?
僕は(変人だから)そんなことを思うのだ。
道中とは何なのか?
「具体的な到達点を定め、そこを目指して邁進する」
人間の特性を考えると、そのような考え方というのは有用なのだろう。
そして「目的地に到達したとして、そこから更に次の目標を立てていけばいいのではないか?」という疑問も、ここには自動的に付帯してくる。
それなら逆に問いたい。
「では、その道中というのは、何なのか?」と。
「目的化しない仕事」への姿勢の欠如
人生(この言葉が大きすぎれば仕事という言葉でもいい)というのは、永遠の目的地に向かうまでの手段に過ぎないのか?
僕が最近仕事をしていて、特にマネージャーとして部下と接していて感じる違和というのは、この辺にある。
「仕事に没頭する」とか「時間を忘れる」とか「仕事自体を楽しんでしまう」とか、そのような「目的化しない仕事」「仕事それ自体」に対する姿勢が欠けているように思うのだ。
いや、姿勢という言葉は適切ではないかもしれない。
自然とそうなってしまう、というイメージ。
手段的な仕事ばかりする動物=社畜?
これは「遊び」や「余白」という言葉でも言い換えられる。
確かに仕事というものには、目的が付帯することは避けられないのかもしれない。
でも、あまりにも目的化が過ぎると、それはただの手段に成り下がってしまう。
その結果生まれたのが「社畜」という言葉なのではないか?
そんなことまで考えてしまうのだ。
あなたの仕事は無意味だと言われた時、抗弁できず、佇むだけの人たち
「不要不急」という呪いの言葉。
それが今でも僕の頭にはヘドロのようにこびりついている。
僕らが今やっている仕事は不要不急に過ぎない、という考えは、仕事という目的を失わせることに繋がるのではないか?
皆それに気づいていながら(強制的に気づかされていながら)、気づいていないフリをしているのでは?
目的地の喪失と現在の手段化。
目的がなくなった時、それが「無意味だよ」「必要ではないよ」と言われた時(ブルシットだと思った時)、目的至上主義社会はその思考を停止する。
呆然と佇むだけになる。
それが目的を上位概念に置いた時の弱さであるように僕は思うのだ。
踊るのはダンサーになりたいからなのか?
そして、多くの場合、目的というのは叶わないものでもある。
その場合、目的を目指していた道中は、その手段というのは、何もなかったことになるのか?
結果、キャリアというのは、如何に効率的に住宅ローンを返済できるか競争(僕らが働いているのは、住宅ローンを完済する為だけのように思える時がある)に堕してしまうのか?
人が踊るのは、ダンサーになりたいからじゃない。
まず踊るのが楽しいからだ。
目的はその後に付帯してくるものだろう?
いつも通り変な話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
本文を改めて読み直して、「難儀なヤツやなあ…」と思ってしまいました。
が、僕はそんな自分が嫌いではありません。
「僕たちの仕事は不要不急で、ブルシットで、住宅ローンを完済する為の手段でしかない」
そうか?
僕はそうじゃないと思いたい。
そんな青臭い情熱を失わずに、目的に囚われ過ぎずに、僕は今日も不要不急かつブルシットな仕事を続けていきます。
呆れずにこれからもお付き合い頂けたら幸いです。