仕事で遊ぶ

UnsplashDavid Hofmannが撮影した写真

「なぜ仕事を頑張らなければならないのか?」という問い自体に、もう目的が含まれてしまっている

前回は目的至上主義社会の弊害について、(ぐちゃぐちゃになってしまったとはいえ)僕なりの考えを展開した。

今回はそれへの対処方法だ。

そしてそれはマネジメント的に言うならば、「育成論」にも繋がっていく。

目的を至上に置きながら、コロナ等によって目的を喪失した現代において、「なぜ仕事を頑張らなければならないのか?」という問いへの回答はとても難しいものになっている。

昭和であれば、金や名声や異性がその対価としての「頑張る意味」であったのだろうが、それはこの令和の時代には通用しない(通用するとしても、低い効力しか持たない)。

となると、ニンジンをぶら下げて「頑張ろうぜ!」と言うのがマネジメントであった近代までと、現代というのはマネジメント手法が異なる(異なって然るべきである)ことになる訳だ。

そこで僕が考えたのは、「なぜ仕事を頑張らなければならないのか?」という問い自体に、もう目的が含まれてしまっている、ということである。

仕事を頑張ることに、目的なんている?

目的など持たず、仕事それ自体を遊びのように楽しんでしまえばいいのではないか?

それが僕がいま考える回答である。

それでは始めていこう。

「いい仕事をする」というのは目的なのか?

「いい仕事をしましょう」

僕がブログで締めの言葉として使っているものである。

これは僕が「いい仕事をする」という目的を持っていることを示している。

先程の問い(なぜ仕事を頑張らなければならないのか?)と関連させて言うなら、「いい仕事をする為」というのが僕の従来の答えであった。

もちろん、それは変わらない。

いい仕事をすることを目的から消し去ることはできない。

でも、ここにはいい仕事をするということそれ自体に、遊びの要素が含まれているとも言えるのではないか?

それが僕なりの回答のアレンジである。

「快」の感情

「いい仕事をする」ということは目的ではあるけれど、ではそれが完全に「手段化」しているかというとそんなこともないのでは?

そんな風に思うのである。

意味が分かりづらいかもしれないけれど、目的至上主義社会においては、たぶん「いい仕事をする」という言葉は目的として適切ではない。

「いい仕事をして、で、どうするの?」というのがその後に続く問いになるはずだから。

「それで何か具体的な報酬が得られるの?」とか「出世しやすくなるの?」とか、人は何らかの目的をそこに求めようとする。

でも、僕が言いたいのはそうじゃなく、いい仕事をすること自体に「快」の感情が内在されている、ということである。

いい仕事をすること自体に意味がある、というか。

そこから先のことは、僕にはコントロール不可能なものであるというか。

自己満足? 何か問題でも?

それはある意味では、自己満足に過ぎない、とも言えるのかもしれない。

でも、「それの何が悪いのか?」という開き直りの気持ちもあるのだ。

大風呂敷を広げることを許容して頂けるなら、「人生なんて自己満足に過ぎないのでは?」とすら思ってしまうのである。

そして、それと同時に、「手段ではない道中こそが人生なのではないか?」とも思うのである。

ワークライフバランス(笑)

これが今回のテーマである「仕事で遊ぶ」ということに繋がってくる。

日本人の特性なのか、人間の特性なのか、目的までの時間、そこまでに至る道は、過程に過ぎない(楽しんじゃいけない)というような考え方があるような気がしている。

これは社畜という言葉に、象徴的に表れている。

僕らがやっていることは苦役で、耐える時間で、余暇や将来の為に仕方なく仕事をしているのだ、というような考え方。

否定はしない。

でも、あまりにも目的に焦点を当てすぎると、今やその道中というものはモノクロになってしまうのではないか?

そんな風に思ってしまうのだ。

「その状態」が有用なのでは?

これはFIRE論に関する話でも思うことである。

「仕事しないでどうするの?」とか「辞めて何をするの?」という問いの中には、既に何らかの目的が必要であるという概念が含まれてしまっている。

でも、僕が思うのは、経済的自立というその状況自体が人生を楽しむうえで有用なのであって、それ以上でもそれ以下でもない、ということである。

そこから何をするかというのはあまり重要ではない、というか。

砂遊びにみたいに

結局のところ、僕たちは目的から逃れることができないのかもしれない。

そして、仕事というものは、その最たるものなのかもしれないとも思う。

でも、だからこそ、その「最中」をどうやって楽しむか、ということが重要になるような気がするのだ。

絵を描くのは、画家になりたいから、だけではない。

踊るのは、ダンサーになりたいから、だけではない。

仕事をするのも、それと同様なのでは?

仕事をすることそれ自体に「快の感情」があってもいいのでは?

意味を求めすぎずに

もちろん、そんなに楽なことばかりじゃない。

仕事を楽しむなんてことは、キレイゴト過ぎるのも百も承知だ。

でも、そこに意味を求めすぎないことは、頭のどこかには入れておいてもいいような気がしている。

人生は欲望だ。

意味じゃない。

それは仕事だってきっとそうなのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「映え」へのアンチテーゼ。

色々と書いてきて、パッと頭に浮かんだのがこの言葉です。

何らかの目的を持つことは悪いことではありません。

でも、それがあまりにも前面に出てしまうと、他のことは「残りカス」に転じてしまう。

「いいね!」と言われなくても、僕たちはそれを楽しむことができる。

無人島で、ネットが遮断された状態でも、僕はきっと勝手に歌を歌い、踊るだろう。

それが人生では?

仕事だって、そうできるはずでは?

究極の自己満足を楽しんでいきましょう。