マイクロマネジメントがマネジメントの究極系だと思っているヤツが多すぎる

UnsplashThomas Parkが撮影した写真

マネジメントができていない=マイクロマネジメントができていない?

チームの成果が上がっていない時、「マネジメントがしっかりしていないからだ」と叱責を受けることがある。

その意見はまあ正しいと思うのだけれど、その際にいつも感じるのが、「マネジメントができていない=マイクロマネジメントができていない=だからダメ」という等式への違和感である。

現在の日本社会において(ウチの会社だけか?)偉くなった人達は、皆「マネジメント=マイクロマネジメント」だと思っているような気がする。

部下の一挙手一投足まで管理できてこそ一人前。

そんなイメージを持っている人が本当に多い。

それは必ずしも間違いだとは言えないまでも、それだけが正解(それ以外は不正解)というのは言い過ぎだと僕は思っている。

それだけしか成功体験がないのはやっぱり異常では?

今日はそんなことを書いていく。

マイクロマネジメントは指摘されづらい

マイクロマネジメントは失点が少ないマネジメント手法である。

そんなことを思う時がある。

そしてマネジメントは得点を取るよりも失点を防ぐ方が有利である、とも。

仮に同じように成果が上がらない場合でも、部下の一挙手一投足まで行動管理をしているのであれば、それが「言い訳」としても通用するし。

一方、僕のような放任型マネジメントは、「管理していないからダメなんだよ」という指摘が非常にし易いものでもある。

「成果が上がらないのは、管理をしていないからだ」という非常に強いイメージ。

それを壊すために僕はこのブログを書いていると言っても過言ではないくらい、日本社会にはマイクロマネジメントが浸透している。

部下をいかに追い詰めるか

「マネージャーの最終形態はマイクロマネージャーになることである」

いやいや、冗談はやめてくださいよ。

僕はそう思う。

でも、みんな大真面目なのだ。

教えを請わなくても、皆それぞれ独自のマイクロマネジメント手法を伝授しようとしてくる。

それは簡単に言えば、「どうやって部下を追い詰めるか」「強制的にやらせるか」という類のもの(変種・亜種)である。

その度に、僕は何というか胸の奥がギュッとするような思いに囚われる。

そして、何としてもコイツらに勝てるような、別のマネジメント手法を確立しなければならないよな、と心に誓う。

マイクロマネジメントは余白を生まず、チャンスを逃す可能性がある

と、ここまで書いてきて、そのように思うのは好みの問題なのではないか、ということが思い当たった。

僕がマイクロマネジメントに対してネガティブなのは、成果が出る出ない(パフォーマンス云々)ではなく、単純に嫌いだからなのではないか、と。

まあ、否定はできない。

でも、それだけではないのでは、とも思うのだ。

上手く表現できないけれど、現代のビジネス環境においては、「枠に囚われない」「枠からはみ出た余白」にチャンスが転がっていると僕は思っている。

それはニッチと言えばニッチだし、金の卵と言えば金の卵とも言えるものである。

と言っても、何か素晴らしく特別なものではなく、誰もがそこにあることは認識しながらも何となく忘れている、視野の端にはあるがそれがビジネスになるとは思っていない、そのような種類のものである。

僕らは普段仕事をしていても、その脇を何度も通り過ぎていても、その存在に気づいていない。

でも、ある時、ふとした瞬間に、それが結構なビジネスチャンスになり得ることを悟り、なぜ今までこれを放置していたのかと、啞然とすることになる。

ただ、マイクロマネジメントという手法を使っていると、このような道端の鉱脈にばったりと出会う機会は激減するように僕には思えるのだ。

というのも、「枠からはみ出ないことが良い」「マネージャーが指示した通りに動くのが最上」というのがマイクロマネジメントという意味(同語反復的)であるからである。

ちょっとした寄り道が飯のタネになる

メンバーが帰り道に何かに気づいたとする。

例えば道端に小さな花が咲いていたとする。

それを眺め、匂いをかぐ、というような行為(これは比喩だ)は、マイクロマネジメントにおいては否定されるだろう。

そんなもの見ていないで、さっさと帰って来いよ、というように。

でも、そこでのちょっとした気づき(記憶のようなもの)が、次のビジネスチャンスに繋がったりもするのが、現代ビジネスの面白いところである。

何気ない出来事、そこから派生する話題や展開、それがビジネスの萌芽になったりもする。

カオスを予め混ぜ込んでおく

それはある種の「アクシデント」であるとも言える。

「アクシデント」というのは狙って出せるものではない。

あらかじめインプットしておくことはできない。

何らかの「カオス」を混ぜ込んでおいて、それが発現することを待つことしか僕らにはできない。

それは見方によっては、「偶然」とも言えるし、「運」とも言える。

でも、ある程度蓋然性を高めるような仕掛けがないと、それは本当に運に頼ったものになってしまう。

その蓋然性を高める仕掛けというのが、僕が普段から行っている放任型マネジメントだ。

成果で勝負しようぜ

余白を楽しむこと。

それを拒絶するマイクロマネジメント。

勝敗は早晩出るだろう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

マネジメントにおいて大事なのは、余白の残し方なのかなと最近思っています。

あまりにも放任過ぎるのは問題ですが、適度に部下たちが自由を与えられているという実感がなければ、仕事というのはとても窮屈なものになってしまいます。

「管理」の要素は必要ではありますが、それが「管理」であると部下たちに悟られてしまうのであれば、悪手です。

緊張と緩和を上手に使い分けていきましょう。