会社との距離感
Y字路の前で
今日はキャリアの話を。
マネージャーという仕事を長くするにつれて、会社との距離感をどうしたらいいのかが段々とわからなくなってきている。
ある時点から、僕は出世というものへの興味が極端に薄くなってしまった。
もちろん、それが完全に消え去ったとまでは言えない。
まだ煩悩は残っている。
でも、以前のような、それこそ20代のような上昇志向は完全に失われてしまった。
仕事は好きであるし、マネジメントという仕事も(色々な不満はあるが)嫌いではない。
ただ、マネジメントという仕事をしていると、否が応でも会社との距離感を考えざるを得ない局面が訪れる。
その際に、Y字路的な場面に立ち会った時に、どちらの方向に進むべきなのか?
まだ答えは出ていないけれど、現時点での僕なりの考えを書いていこうと思う。
踏み絵をしても偉くなりたいか?
会社への順化。
マネジメントという仕事を続けているとこの種のことを求められているな、と強く感じる場面がある。
自分のことは捨て去り、全て会社の言う通りに動けるか否か。
滅私奉公。
踏み絵。
そのような選択を(比喩的に)迫られる場面がある。
その度に、「ここまでしてオレは偉くなりたいんだっけ…」と思うことになる。
僕が僕でなくなってしまうような感覚
確かに組織人である以上、ある程度の妥協は必要だろう。
また、マネージャーという立場であれば、ある程度以上の妥協が求められることも理解できる。
でも、僕が感じるのは、相当程度の妥協を求められることへの違和である。
言葉は強くなるけれど、何となく魂を売るような気がしてしまうのだ。
それが自分のセールスポイントなのに、それを失くしたら何者でもなくなってしまうのに、それを求めるのか、と絶望的な気持ちになる。
ここには、それが本当に会社にとって良いことなのだろうか、という気持ちもある。
心理的安全性? 笑っちゃうね。
心理的安全性、という言葉を最近よく耳にする。
ウチの会社でもそのような方向に会社を進ませるべきだ、というような議論を聞く。
そして、実際にそのような方向に進んでいる(素晴らしい!)というような、(僕からすれば)ある種のアピール(大政翼賛会的な)を聞くことも多い。
ただ、実際のところはどうなのだろうか?
少なくとも、僕は自分の心の内を会社の人に晒しても大丈夫だとは思えない。
それも以前に比べて、より不安感は強まっている。
できるだけ胸の内を悟られないように、日々感情を表情に出さないように努めている。
それは下手をすれば密告されてしまうからだ。
密告というと言葉は強いかもしれないけれど、僕はそのような居心地の悪さを感じることが多い。
それは心理的安全性なんてものからは程遠い。
むしろ隣組みたいな感じである。
そんな環境の中で、でもこの会社は良くなっているというプロパガンダが溢れていて、「ああ、やっぱりオレはこの会社に合わないなあ…」と寂しい気持ちになるのだ。
変人。I know.
たぶん僕がおかしいのだろう。
多くの人に順応できない異端者。
昔からそれは自覚はしている。
そして、そのような異端者的な立場に立つ自分に酔ってもいる。
でも、最近の流れはやっぱりおかしいのでは?
そして、そのようにおかしいと思っていても、自分の心なんて失くしてしまった方がいいのだろうか?
僕にはよくわからない。
偉くなったとして、やりたいことができるのか
よくある言説として、「会社に順応し、昇進した上で自分のやりたいことをやればいい」というものがある。
それができないのはお子様である、と。
確かにその通りなのだろう。
もちろん、程度問題であるとは言え、僕だって会社の言うことを適切に実行しているという自負はある。
そこに不平不満を言って、溜飲を下げているというようなレベル感でモノを申したい訳ではない。
僕が思うのは、仮にそのように会社に順応し、適切な昇進を勝ち取り、ある程度のポジションを得たとして、そこで自分がやりたい方向に進むことができるのだろうか、ということである。
どうもそこが怪しそうだ、僕はそう思っている。
会社の歯車になることは当然であるが…
基本的に、僕は管理職というのは、会社のある種歯車になるべきだと思っている。
というか、ならざるを得ない(それが仕事だから)、という考え方を持っている。
だから、その辺にある「個性を尊重しよう」とか「自分らしく働こう」みたいな、ある種子供じみた発想は僕にはない(あっても少ない)。
でも、一方で、そのような歯車としての機能を完全に発揮した先に、僕がやりたいようなことを実現できる可能性があるのかと問われると、そこで逡巡してしまうのである。
階段の先は、また階段では?
働くことは価値観である。
究極的には。
もちろん、多くの人はこの価値観の発露の仕方を間違えていることも事実だ。
まずすべきことは職務を全うすること。
会社の駒として、従順にその方針に付き従うこと。
それが大前提だ。
でも、それを繰り返した先に、階段を昇っていった先に、やりたいことができるような踊り場は出現するのだろうか?
ただ、ずっと階段を昇り続ける羽目になるのでは?
そんなことを思ってしまうのだ。
そこにいる僕は何を考えているのだろう
もう少し言うなら、その時の僕にやりたいことなんて残っているのだろうか?
そして、仮に残っていたとして、その時の僕のやりたいことに付き合ってくれる部下なんているのだろうか?
僕にはよくわからない。
ただ、少なくとも今のような仕事のやり方は変えなくてはいけない局面が来るのだろう。
その際に僕は何を思うのか?
何をブログに残すのか?(もしくは残さないのか?)
何だか取り留めのない文章になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
マシンのように出世しようとする人が羨ましい。
そう思う時があります。
そして「それはただの逃げであるのでは?」とも。
僕にはよくわかりません。
何を言っても、どう言っても、それは如何様にも取れてしまうから。
ダサい仕事をしたくない僕が、ダサい仕事をしなければ偉くなれないということを突き付けられて、いやいやそれをダサいと思うこと自体がダサいんだよ、と言われているような気分。
無限ループ。
出口はありません。
でも、明日も仕事をしなくてはなりません。
青臭い悩みとは違う、青臭い悩み。
それに身悶えしながら、明日も仕事に行きます。
引き続き読んで頂けたら幸いです。