から騒ぎはやめよう
中身とガワの乖離
会社という組織の中の一員として働いていると、「水を差す」ことに対する強い抑制を感じることがある。
何らかのプロジェクトがあり、その責任者がいて、そのプロジェクトが「成功している!」「こんなに上手くいっている!」というような報告が毎日メール配信されている。
それもたくさんの宛先とCCが付いて。
それに対して被せるように返信を行い、それがまたそれぞれに拡散される。
時にはそれが何ラリーも。
この時点で既にウンザリしているのだけれど、悪気なくそのプロジェクトの数字の検証をしてみると、「どう考えても上手くいっていないのでは?」と思う時がそれなりに多くあるので、言葉を失ってしまうことになる。
でも、そのプロジェクトはその熱量のまま進んでいる。
本来的には「ちょっと違うのでは?」とか「軌道修正すべきでは?」という声が上がってくるのが適切な組織なのだろうけれど、それはご法度として捉えられるような空気感。
そしてプロジェクトは中身が薄いまま、熱量だけを帯びて進んでいく。
中身とガワの乖離。
もう、それ、やめない?
今日はそんな話である。
無謬性の原則
「日本では失敗の想定をしたり、議論をしたりしてはいけない風潮がある」
「それは民族的宿痾みたいなものなので、ある種仕方ないことではあるが、失敗を無味無臭のデータとして捉え、アップデートし続けることで対応する方法もあるのでは?」
というようなことを、以前「無謬性の原則と日本社会」というブログの中で書いた。
今日の話もそこに繋がるものである。
そして、どちらかというと、そこにある「空気感」のような話が中心となる。
失敗の想定が失敗を呼び込む?
「失敗の想定をするというその心持ちが失敗を呼び込むのだ」
僕はこの種のセリフを何度となく会社の中で聞いた。
というか、実際に浴びせられることもあった。
もちろん、仕事に臨む上で「気持ち」というのが大事なものであることは僕だってわかっている。
でも、全てが「気持ち」で解決できる訳ではない。
ましてや、それが集団心理によって過剰に加熱されており、本質を見失っている可能性がある場合には、状況をきちんと検証した上で進めるべきなのではないか、と僕は思うのである。
人間というのは、兎角間違うものであるから。
感情主導の日本社会
だから、「悪魔の代弁者」のような仕組みが必要となる訳である。
それはそのプロジェクトの失敗を願っているから、そのような機構を置いている訳ではないのだ。
当たり前の話であるが、プロジェクトの成功は誰だって願っている(そりゃそうだ)。
ただ、そこに至るまでのアプローチ方法が違うだけである。
そして、現在の日本におけるアプローチ方法は、「感情」に偏り過ぎている。
そう思うのである。
祭りの開催
また、ここには同調圧力や集団心理が強烈に働くことになる。
冒頭に書いたように、「その流れに乗らない奴は非国民だ!」というようなムーブメントが起き、そうではない者を排斥するような雰囲気が生まれる。
そして付和雷同的にそこに乗っかる人たちも多数存在する。
こうやって、「祭り」が開催されることになる。
たくさんの担ぎ手とその上に乗っかる神輿。
でも、神輿の中身は空っぽ。
ただ、掛け声はやけに威勢がいいし、傍から見ればとても盛り上がっているように見える。
でも、それが行き着く先は?
集団的記憶喪失
僕は数々のプロジェクトが、上記したような盛り上がりを見せた後、何の成果も生まないことを目撃してきた。
また、そのプロジェクト自体がなかったかのように、そこにいる参加者全てが集団記憶喪失になったかのように、忘れ去られていくことを目の当たりにしてきた。
当然ながら、誰一人責任を取ることはないし、その経験の蓄積もなされない(記憶から消されているのだから)。
そして、また時が経つと新しいプロジェクトが立ち上がり、同じような盛り上がりを見せ、失敗し、忘れ去られていく。
この繰り返し。
もうやめないか?
オレは忘れないぜ?
以前のブログと同じ結論になるが、大事なことは失敗を失敗として捉え、そのデータを次回以降に有効に活用することである。
それは誰かの責任を問うことをしたい訳ではない(もちろん責任は取った方が良いと思うが)。
単純に同じ地平で同じ失敗を繰り返すのが嫌なだけなのだ。
そして、そこに乗っかるだけ乗っかる人たちが平然と仕事を続けていることに、もっと言えば、「初めからオレも失敗すると思っていたよ」と訳知り顔で当たり前のようにのたまうことに、耐えられないからである。
手柄を上げたい、出世したい。
どうぞご勝手に。
でも、それなら、覚悟を持ってやれよ。
少なくともオレはお前が言っていたことを覚えているぞ。
多様性とは?
何かに対して、集団で盛り上がりを見せるのは、日本人の良い所なのかもしれない。
そして、失敗を忘れ次に進むというのは、この災害の多い国に住む以上必要な特性なのかもしれない。
でもさ、と僕は思うのだ。
水を差す奴、空気を読めない奴、そういう奴が今求められているのでは?
というか、それが多様性というものなのでは?
形だけのダイバーシティ。
脳死状態のフェスティバル。
いい国だ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
日本の生産性が低いのは、空気や感情に基づいて戦略が進められているからではないか?
そんなことを思う時があります。
大事なのは、データよりも、その場のノリとテンション。
好き嫌いと感情論。
そして(集団)記憶喪失。
そういうものに僕はうんざりとしています。
失敗は大切なデータです。
祭りをやめ、どんどん水を差していきましょう。