上に立つには魅力が不可欠
テクニックではどうしようもない領域において
今日の話はいつも書いている「結局は人間性」という言葉から派生したものである。
人間性という大きな括りから、魅力というものにフォーカスして話を進めていく。
僕は9年ほどマネージャーという仕事を続けている。
その間、どうやったらマネジメントという仕事が上手くいくか、について考えてきた。
そして、1つの結論が「結局は人間性」であり、それはどうやっても克服できないもの、ある種の天賦の才である、ということである。
僕はそれに気づいてしまった。
それは同時に、自分の仕事の限界を規定することを意味した。
マネジメントにおいては、テクニックでどうにかなる領域とそうではない領域がある。
そして、階層が上がれば上がるほど、「そうではない領域」の面積は拡大していく。
例えば、「人的な魅力」という意味において。
そして、魅力というのは、人間性に比べて、多少は向上の余地があるのではないか、というのが今回の文章の趣旨となる。
これを読めば、もしかしたら、今よりも魅力的になることができるかもしれない。
それでは始めていこう。
心の引力を身につける為には?
まずは、「魅力的である」というのはどういうことかを定義してみる。
辞書によれば、「心を引き付ける力」というのがその意味となる。
では、心はどうやったら引き付けることができるのか?
「引き付きなさい(謎の日本語)」と言ってもダメなのは、誰でもわかることだろう。
それはたぶん引力みたいなもので、意識されないし、感知できないのだけれど、自然とそのようになってしまう種類のものであるはずだ。
そのような「心の引力」を身に付ける為にはどうしたらいいのか?
引力を強くするためには、質量を上げる必要がある
ここで理科の話をする。
引力とは、2つの物体が互いに引き合う力を指す。
そして2つの物体の間に働く万有引力は2つの物体の質量の積に比例し、距離の2乗に反比例する。
となると、引力を増やす(変な言葉であるが)為には2つの物体の質量が増す必要があるという訳だ。
例えば、マネージャーと部下の関係性において、そこにある引力を強くしたいとする。
そして、部下の質量は一定とする。
となると、引力を強くするためには、マネージャーの質量を上げるしかない。
そうなのだ。
これが魅力的になる、ということの意味である。
重さがある人になる
もちろん、質量を上げると言っても、体重を増やしなさいとかそういうことではない(それももしかしたら効果があるかもしれないけれど)。
「重さがある人になる」そういう意味である。
となると、これは結局のところ「人間性」にまた戻ってくる、と言えなくもない。
でも、少し違うのは、人間性という言葉が所与のものである(改善が難しい)のに対し、重さというのは改変が可能であるというところである。
物差しをたくさん持つ
では、どうやったら人間的な質量を増すことができるのか?
僕は「物差しをたくさん持つ」ということなのではないか、と思っている。
それも目盛りや計測法がバラバラの。
ヤード・ポンド法とメートル法みたいに。
華氏と摂氏みたいに(何だかアメリカのたとえばかりだな…)。
評価軸が多様であること。
それを測定できるだけの視野の広さを持っていること。
それが質量を増す為には必要なことであるような気がしている。
価値観の並列世界を尊重する
自分の体内メモリーの記憶の質量が増していくような感覚。
換言すれば、「たくさんの経験をしなさい」という凡庸な言葉。
それが魅力に繋がるのである。
偉人たちが「旅に出よ」と推奨するのは、そこにある価値観が大きく揺さぶられるからである。
そして価値観というのは、良いとか悪いとか、そのような基準で考量できるものではない。
どちらが良いとか、そういう話ではない。
ある種の平行世界が存在しているだけである。
もちろん、好みはあるだろう。
でも、それはあくまでも好みであって、善し悪しではない。
そのような価値観の並列世界。
それは部下との関係性においても言える。
善悪ではない達観性
部下はそれぞれ多様な価値観を持っている。
それが会社という価値観にフィットするか、そうでないか、は確かにある。
でも、フィットしないからといって、必ずしも悪いことではない(フィットしていることが、必ずしも良いことではない)。
そのようなことを自然と理解していること。
狙う訳でも、装う訳でもなく、「まあそんなものだよね」とある種達観できていること。
それが人間の質量を増し、魅力を増やすことに繋がるのではないか?
僕はそのように考えている。
「客観的な価値観など存在しない」は言い過ぎ
そして、それは「ポスト・トゥルース」や「オルタナティブ・ファクト」とは異なるものだ。
「客観的な価値など存在しない」というのは言い過ぎだ。
「世界のあり様は、見方によって異なる」というのは事実であるけれど、そこにある「確からしさ」にはグラデーションがある。
蓋然性の高さには違いがある。
それを一緒くたにせず、価値観の揺らぎすらも、楽しんでしまえること。
それが経験を増し、質量を増やし、引力を強くする。
訳知り顔では何も変わらない
「結局は人間性」に過ぎない。
でも、そうやって訳知り顔をしていても、何も変わらない。
たくさんの経験を。
それを受け止める柔軟性を。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
人間的魅力。
僕にはそれがありません。
人間性もクソ。
でも、多様性への寛容さはそれなりにあると思っています。
それも、巷で言われているような「エセ多様性」ではなく、本当の意味での多様性に対して。
僕は異質であることに興奮します。
変人に対し好感を持ちます。
それは疑似的な旅に似ているから。
自分の中の「常識」を覆すことに、質的な変性をもたらすことに、わくわくするから。
メモリーがその記憶を増やすことで質量が増すのかはわかりません。
でもそのようなイメージを持つこと。
多様なものを取り込んだ自分の質量が増し、結果引力が増すと錯覚すること。
アンチ・ミニマリズム。
というか、散らかった部屋でも愛せること。
単一の美的感覚への違和感。
統一感がなくたって、そこに面白さはあるぜ?
雑踏。
猥雑。
バザールのような混交物を楽しんでいきましょう。