上に立つには魅力が不可欠

UnsplashLudemeula Fernandesが撮影した写真

テクニックではどうしようもない領域において

今日の話はいつも書いている「結局は人間性」という言葉から派生したものである。

人間性という大きな括りから、魅力というものにフォーカスして話を進めていく。

僕は9年ほどマネージャーという仕事を続けている。

その間、どうやったらマネジメントという仕事が上手くいくか、について考えてきた。

そして、1つの結論が「結局は人間性」であり、それはどうやっても克服できないものある種の天賦の才である、ということである。

僕はそれに気づいてしまった。

それは同時に、自分の仕事の限界を規定することを意味した。

マネジメントにおいては、テクニックでどうにかなる領域そうではない領域がある。

そして、階層が上がれば上がるほど、「そうではない領域」の面積は拡大していく。

例えば、「人的な魅力」という意味において。

そして、魅力というのは、人間性に比べて、多少は向上の余地があるのではないか、というのが今回の文章の趣旨となる。

これを読めば、もしかしたら、今よりも魅力的になることができるかもしれない。

それでは始めていこう。

心の引力を身につける為には?

まずは、「魅力的である」というのはどういうことかを定義してみる。

辞書によれば、「心を引き付ける力」というのがその意味となる。

では、心はどうやったら引き付けることができるのか?

「引き付きなさい(謎の日本語)」と言ってもダメなのは、誰でもわかることだろう。

それはたぶん引力みたいなもので、意識されないし、感知できないのだけれど、自然とそのようになってしまう種類のものであるはずだ。

そのような「心の引力」を身に付ける為にはどうしたらいいのか?

引力を強くするためには、質量を上げる必要がある

ここで理科の話をする。

引力とは、2つの物体が互いに引き合う力を指す。

そして2つの物体の間に働く万有引力は2つの物体の質量の積に比例し、距離の2乗に反比例する。

となると、引力を増やす(変な言葉であるが)為には2つの物体の質量が増す必要があるという訳だ。

例えば、マネージャーと部下の関係性において、そこにある引力を強くしたいとする。

そして、部下の質量は一定とする。

となると、引力を強くするためには、マネージャーの質量を上げるしかない。

そうなのだ。

これが魅力的になる、ということの意味である。

重さがある人になる

もちろん、質量を上げると言っても、体重を増やしなさいとかそういうことではない(それももしかしたら効果があるかもしれないけれど)。

「重さがある人になる」そういう意味である。

となると、これは結局のところ「人間性」にまた戻ってくる、と言えなくもない。

でも、少し違うのは、人間性という言葉が所与のものである(改善が難しい)のに対し、重さというのは改変が可能であるというところである。

物差しをたくさん持つ

では、どうやったら人間的な質量を増すことができるのか?

僕は「物差しをたくさん持つ」ということなのではないか、と思っている。

それも目盛りや計測法がバラバラの。

ヤード・ポンド法メートル法みたいに。

華氏摂氏みたいに(何だかアメリカのたとえばかりだな…)。

評価軸が多様であること。

それを測定できるだけの視野の広さを持っていること。

それが質量を増す為には必要なことであるような気がしている。

価値観の並列世界を尊重する

自分の体内メモリーの記憶の質量が増していくような感覚。

換言すれば、「たくさんの経験をしなさい」という凡庸な言葉。

それが魅力に繋がるのである。

偉人たちが「旅に出よ」と推奨するのは、そこにある価値観が大きく揺さぶられるからである。

そして価値観というのは、良いとか悪いとか、そのような基準で考量できるものではない。

どちらが良いとか、そういう話ではない。

ある種の平行世界が存在しているだけである。

もちろん、好みはあるだろう。

でも、それはあくまでも好みであって、善し悪しではない。

そのような価値観の並列世界。

それは部下との関係性においても言える。

善悪ではない達観性

部下はそれぞれ多様な価値観を持っている。

それが会社という価値観にフィットするかそうでないか、は確かにある。

でも、フィットしないからといって、必ずしも悪いことではない(フィットしていることが、必ずしも良いことではない)。

そのようなことを自然と理解していること。

狙う訳でも、装う訳でもなく、「まあそんなものだよね」とある種達観できていること。

それが人間の質量を増し、魅力を増やすことに繋がるのではないか?

僕はそのように考えている。

「客観的な価値観など存在しない」は言い過ぎ

そして、それは「ポスト・トゥルース」「オルタナティブ・ファクト」とは異なるものだ。

「客観的な価値など存在しない」というのは言い過ぎだ。

「世界のあり様は、見方によって異なる」というのは事実であるけれど、そこにある「確からしさ」にはグラデーションがある。

蓋然性の高さには違いがある。

それを一緒くたにせず、価値観の揺らぎすらも、楽しんでしまえること。

それが経験を増し、質量を増やし、引力を強くする。

訳知り顔では何も変わらない

「結局は人間性」に過ぎない。

でも、そうやって訳知り顔をしていても、何も変わらない。

たくさんの経験を。

それを受け止める柔軟性を。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

人間的魅力。

僕にはそれがありません。

人間性もクソ。

でも、多様性への寛容さはそれなりにあると思っています。

それも、巷で言われているような「エセ多様性」ではなく、本当の意味での多様性に対して。

僕は異質であることに興奮します。

変人に対し好感を持ちます。

それは疑似的な旅に似ているから。

自分の中の「常識」を覆すことに、質的な変性をもたらすことに、わくわくするから。

メモリーがその記憶を増やすことで質量が増すのかはわかりません。

でもそのようなイメージを持つこと。

多様なものを取り込んだ自分の質量が増し、結果引力が増すと錯覚すること。

アンチ・ミニマリズム。

というか、散らかった部屋でも愛せること。

単一の美的感覚への違和感。

統一感がなくたって、そこに面白さはあるぜ?

雑踏。

猥雑。

バザールのような混交物を楽しんでいきましょう。