アピール合戦からの離脱
評価者の劣化
マネージャーをやってきて、特に最近感じるのが、本質的なことよりも表面的な綺麗さがより重要視されるようになってきた、ということである。
これは「評価者の劣化」と言い換えても良いと思う(言葉はだいぶ強いが…)。
評価する側がその綺麗に装飾されたものを額面通りに受け取り、素晴らしいことをやっていると称賛するという流れ。
でも、中身は空っぽ。
そのような繰り返しの中で、それを見ている周囲の人間たちには空虚さが蔓延するようになる。
上司がこのようなタイプであると、部下はそれを確実に嗅ぎ取り、「なんて下らないのだ」とどんどん白けていく。
確かに、社会人として生きていく上では、多少のアピールは必要だろう。
自分の業績を必要以上に装飾することは、誰しもがそれなりに行うものでもあるはずだ。
ただ、それがあまりにも行き過ぎると、誰も本質的なことをやらなくなる。
本質的なことは大変だし、相当な労力がかかるから。
でも、それが続くと、組織は確実に疲弊し、再起不能になる。
「それをやめませんか?」というのが今日の話である。
それでは始めていこう。
「盛る」と「嘘」は違う
「盛る」という言葉。
SNSに限らず、ある事象をより良く見せるために、少し過剰に演出すること。
それ自体は多かれ少なかれ誰しもやっていることであって、僕がとやかく言う話ではない(僕だって話を盛ることはよくある)。
ただ、それは1を5にしたり10にしたりするから成立する訳で、元々の話が0であっては「嘘」になる。
無を有にすることは、盛るとは言わない。
そこには厳然たる境界線が存在する。
僕はそのように考えている。
無から有が生まれる
これは会社という組織内においても同様である。
自社や自部署の業績を良く見せるために、話を盛るということはそれなりの頻度であるし、別にそれ自体は珍しいことではない。
ただ、組織内の構成員の多くがそれを行うようになると、「盛り方」がどんどんと過激になっていく。
そうしてアピール合戦が始まる。
ここまでもまあよくあることだと僕は思っている。
でも、これが更に進むと、何もない所からとても素晴らしいものが生まれたかのような話が社内に飛び交うようになってくる。
確かに話だけ聞くととても素晴らしいことのように思われる。
そんなことができるのか、と流石の僕もテンションが上がったりもする。
だから自分のチームでも応用できないかと、その話が出た部署に問い合わせて話を聞いたりもする。
後は、言わずもがなだろう。
錬金術のように
これも従来であれば、もう少しまともであったように思う。
多少の「盛り」はあったとしても、許容範囲というか、こちらもある程度差し引いて話を聞くことで実態に近いものが得られていたように思う。
ただ現在は違う。
全くの別物、もしくは無なのだ。
そこには何もない。
錬金術師か詐欺師か。
僕はその度にとても空疎な気持ちになる。
そして、戦前(戦中)というのはこういう感じだったのだろうな、とまた思うことになる。
空っぽの神輿
本質的なことを言うと、白眼視される。
王様は裸だと言うと、恨みを買う場合さえある。
まあ確かに、何でもかんでも本音を言えばいいというものではないだろう。
ただ、取り巻きも含め、何もない神輿を担いでいることに、それも大騒ぎしていることに、何とも形容しがたい気持ちになるのだ。
そして、そのような神輿を担いでいる人が社内的に評価され、とても素晴らしいと称賛されることに、強い虚しさを感じる。
正直に言うと排除される
冒頭にも書いたように、これは評価者の劣化だと僕は思う。
もしくは怠慢だと思う。
いや、彼(彼女)らだって、本当は気づいているのだ。
それが空疎であることを。
でも、それを直視すると、現実が見えてしまうから、敢えて見ないようにしているのだ。
ほら、またこの感じだ。
誰もが戦況が悪化していることには気づいている。
ただ、それを正直に言う者は排除される。
結果、現実との乖離はどんどんと大きくなっていく。
それを止められるものは内部には存在しない。
訪れる敗戦。
いつか見た光景の再現。
そこから脱するには?
科学的思考法を
日本社会に潜む構造的な思考形態。
というか、この空気感。
そこから逃れる為には、科学的思考法を取るしかない。
観察と仮説構築と実証実験。
それで得られた知見のアップデート。
それを繰り返していくこと。
空気だとか、忖度だとか、そのようなものを無視できるくらいの、データの積み重ね。
判断すらAIに任せた方がまだマシなのでは?
もしかしたら、AI化が最も必要なのは日本社会なのではないか?
そこに人為的要素が入らないように、判断すらAIに任せてしまう方が、日本社会にとって良いことなのではないか?
僕はそんなディストピアを考えてしまう。
いや、そこまで行かなくても、何らかの示唆を得られるような状態、「空気」に押し流されそうな時にそれが間違っているのではないかと提言するような機能(それも人が介在しないような)、が必要な気がしている。
人が言うから腹が立つ訳で、マシンが言うなら腹も立たないだろう?
そこにアピール合戦から離脱する為のヒントが隠されているように僕は考えている。
自らのマシン化?
ディープラーニング化?
変な話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
敗北主義ばかりでは気が滅入る。
まあそれはそうでしょう。
ネガティブなことばかり言う人を近くに置いておくと、こちらも気持ちが塞いでくる、それは理解できます。
ただ、ではポジティブなことばかり言う人なら良いのでしょうか?
そのような人に囲まれ、でも現状は何も良くなっていない時、人は何を思うのでしょうか?
僕は現実を直視したいと思っています。
それが如何に辛いものであっても、一旦は対峙する必要があると考えています。
アピールだけでなく、本質を見ていきましょう。