マネジメントがいらない世界で仕事をしてみたいぜ
PDCAを確認するのがマネジメント?
今日の話はタイトルの通りで、というか少し補足をすると、「(世間で言われる)マネジメントがいらない世界で仕事をしてみたい」と考えている。
ここで言う「世間で言われる」というのは、「部下の行動管理」の意味合いが強く、箸の上げ下ろしとまではいかなくても、「部下が何をやる予定なのか、実際にどうやっているのか、結果どうだったのか」というループ(俗に言うPDCAサイクル)のことを指している。
多かれ少なかれ、マネージャーという職種の人はこのような仕事をしているのだと思う。
でも、それはマネジメントの本質ではない(と僕は考えている)。
だから、そのような行動管理をしなくても良いような環境の中で仕事をしてみたいと思うのだ。
僕のイメージは(昔から全然変わっていなくて恐縮であるが)プロサッカーチームである。
選手の個性はあっていい。
それぞれの方向性や価値観が違ったっていい。
そして勝つ為にぶつかることだってある。
でも、監督はその行動管理まではしないよね?(プロなのだから)
そのような集団におけるそのような仕事。
それを実現する為にはどうしたらいいか?
その試論のようなもの。
それを書いていこうと思う。
それでは始めていこう。
プロと大人
マネジメントがいらない世界。
そこにおける人たちはプロである必要がある。
そして大人である必要がある。
「プロ」と「大人」。
それが僕が考えるマネジメントがいらない世界における登場人物像だ。
以下、もう少し詳しく書いていく。
カネを払いたくなるのがプロ
「プロ」とはどういうことか?
僕が考える「プロ」の定義は、「金を出したくなること」である。
これは反対概念である「アマチュア」を考えるとわかりやすいと思う。
「アマ」にはカネを払いたくない。
「プロ」にはカネを払ってもいい。
そのようなイメージ。
これは直接的でも間接的でも構わない(サラリーマンであれば、顧客から直接対価を得ることは現実的ではないし)。
ただ、そこに金銭というか対価が発生しており、その費用を払うことが惜しくないとクライアントに思って貰える人がプロである。
正のエネルギー(動的な方向性)の対象がプロ
ここではわかりやすさを重視したので「金」という言葉を出したけれど、直接的に「金」を出さなくたっていいと僕は考えている。
もう少し拡大した概念で説明するなら、「称賛」というイメージである。
「賛辞」というか、「拍手」というか、そのような正のエネルギーを送っても良い(送るべきだ)と考えられる対象の人。
「アマ」にはこれがない。
動的な方向性、能動的な矢印がない。
その場に留まっている。
これがプロとアマの違いである。
アマチュアをマネジメントする仕事
こう考えると、大多数の人は「アマチュア」である。
給与という「金」を貰っているにもかかわらず、そこには動的な方向性は皆無だ。
ただ単に「雇われているだけ」。
会社からの賛辞やオファーもないような状況。
そして、「このような人達を「マネージ」するのがマネージャーの仕事である」と一般的には考えられているような気がしている(というか、意識すらされていないのが実際のところだろう)。
アマチュアをマネジメントする仕事。
それをそろそろ卒業したいのだ。
自立と問い
その為には「大人」が集まる必要がある。
僕が考える「大人」の定義は、「自立していること」である。
そして、この自立は「問う」という概念込みのものである。
要は、「答え」る為に自立するのではないのが、大人として重要なことである。
子どもは答えていればいい。
何かの依頼に対して、その返事をしておけばいい(「仕事の依頼→仕事する」のように)。
でも、大人はそれだけでは不十分だ。
問うことが絶対的に求められる。
刻々と変わる環境の中で、「問い」が自然と漏れ出てしまうこと。
無意識の中で、問うてしまっていること。
そして、行動してしまっていること。
それが大人の条件である。
環境整備のみすればOK
では、上記したような「プロ」と「大人」が合わさるとどのような形になるか?
「無意識に漏れ出てしまった問いが、結果的に行動となり、そこに居合わせた人が対価を支払いたくなる」
ここには「マネジメント」は不要だ。
ただそのような無意識の問いが自然発生してしまうような環境を整備しておけばいい。
そして、そのような人が集まることで、更なる創発性が巻き起こるようになる。
もちろん、それぞれの無意識の問いの発露により、衝突や不和が生まれることはあるだろう。
それを導いたり、方向性を指し示したりするのが、マネジメントではないか?
僕たちはその前段階で右往左往している。
アマチュアの「マネジメント」をマネジメントだと勘違いしている。
それをやめたいと僕は思っている。
面白くない仕事はAIがやるようになるはず
その為には、一定程度の格差が必要なのではないか?
というか、「プロ」としての仕事と、「アマ」としての仕事をきちんと見極め、その「対価」に差をつけるべきなのではないか?
もちろん、ここでいう「対価」は「金」じゃなくても構わない。
「面白い仕事」というような考え方だっていい。
いや、早晩そうじゃない仕事は、AIがやるようになるのかもしれない。
面白い仕事は限られた人にだけが行えるようになるのかもしれない。
そうか。
だったら、マネジメントがいらない世界を求める必要なんてないのか?
AIの進化を待てば、自然と大多数のアマチュアは排除されるようになるから。
そのような暴論。
仕事の娯楽化?
たぶんAI同士のプロサッカーの試合に僕は対価を払わないだろう。
完全じゃないとて、人間同士の試合に金を払うはずだ。
だとすると、仕事は娯楽のようなものになるのか?
人生という途轍もなく暇な時間を潰す為の有意義な娯楽。
それを享受できる人とそうでない人。
どちらが幸福なのだろうか?
何だかSFめいたよくわからない話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
最後は何だか変な話になってしまいましたが、行動管理という名のマネジメントをすることに飽き飽きしています。
「別に自分で考えて好きにやればいいんじゃない?」
僕はそのように考えるのですが、どうやらこの国においては、誰かに何かを指図されて、その通りやる方が心地良い人の方が多いようです(どの国でもそうなのか?)。
アマと子どもばかりの国で仕事をしていることに疲れてしまいました。
次回はもう少し明るい話を書きたいと思います。
懲りずに読んで頂けたら幸いです。