群れるな

未成熟な大人たち
社会人になっても、学生時代のようなノリの人によく出くわす。
その度に「成熟」について考える。
僕は日本という国が好きだけれど、成熟度で言うならあまり高くないと思っている。
それは職場も含めた僕が日常的に出会う人たちから算出された、とても個人的な統計値ではある。
でも、それなりに的を射ているのではないかとも思っている。
多くの人は「自分で考える」ということができず、また「孤独に耐える」ことができない。
そして、「内省」の奥深さについて考えたこともない。
それはマネジメントレベルの人間においても同様である。
その結果として、日本のマネジメントは停滞し、活力が奪われている。
それを変える為には、個々人の成熟が必要となるし、群れないことが重要となる。
今日はそんな話だ。
責任の範囲の明確化を
「I」を主語にして話すことの重要性。
このブログの初期に僕自身がよく言っていたことである。
そうなのだ。
成熟するということは、責任を引き受けることである。
責任を引き受ける為には、ボーダーラインをどこかで定め、自己というものを規定しなければならない。
その線引きがなければ、責任の範囲は不明確となる。
概念に過ぎないものの代表者というテイ
多くの人達は、主語を明確にせず話をする。
またそれは「We」というものですらない。
ある種の空気のようなもの。
何か「お上」のような得体の知れないもの。
それを笠に話をする(もちろん、無意識的に)。
自分は何らかの集団における代表者として発言をしているテイを取る。
でも、その何らかの集団というものは概念的なものに過ぎず、具体的実体はない。
そのような仮想集団。
それによる成熟の遅滞。
それが問題なのではないか?
集団から外れることへの恐怖
集団の輪から外れること。
学生時代から現在に至るまで、僕たちはそれを過剰に恐れる。
それは人間という生き物における普遍的な感情なのかもしれない。
「集団生活を基本とする人間という種において、集団から外れることは死に直結する」
そのようなある種本能的なものなのかもしれない。
でも、仮にそうだとしても、あまりにも過剰なのが日本という国であるような気がしている。
日本には責任を取る経験が不足している
個の輪郭が曖昧であること。
それをむしろ良いことだと捉える傾向があること。
僕なりの言い方にするなら、そこには「I」が存在せず、自分の意思(とその表明)が不明瞭になること。
それが責任を回避する傾向を生み、責任を取る経験を阻害し、人々が成熟する過程を奪っているのでは?
やや風呂敷を広げすぎな気もするが、僕はそのように思うのである。
意思と欲望
僕は最近「意思」ということを考えている。
もしくは「欲望」というものについて考えている。
「~したい」という感情。
それがAIと人間を分かつものなのではないか?
そして、それがこれからの時代に人間側に求められることなのではないか?
そんなことを考えている。
意思の時代の到来
もし意思がないなら、それはAIによって代替可能であるし、むしろその方が有用ですらある。
欲望が存在しないなら、その意思決定は信頼に足らず、その人と行動を供にしようとは思わなくなる。
とするなら、個の確立というか、その人がAIではなくその人足り得る何かがこれまで以上に求められることになるはずだ。
Iの表明。
あなたはどうしたいのか?
そういう「意思の時代」が到来する。
その結果、我々日本人の価値は今まで以上に下がっていくのではないか?
僕はそんなことすら危惧している。
つまらない大人たち
多くの大人たちが面白くなくなっている。
僕が思うのはそのようなことだ。
話をしていても、発展性が何もない。
創発的なもの、刺激となるものが全くない。
結果、アイディアなんて生まれようがない。
これだったら、ChatGPTと話をしている方が断然マシだ。
「最適解を吐き出せ」というプロンプトに駆動された人たち
そういう人は「最適解」ばかり話そうとする。
でも、最適解というのは、既知のものに近い。
それも使い古されたような。
もしかしたら、あるコミュニティ内においては、そのような言葉遣いが適切とされているのかもしれない。
その中で「最適解ばかり言う」ことが、優秀という尺度になっているのかもしれない。
でも、なぜそれが最適解なのか、仮にそれが最適解だとしてあなたはどうしたいのか、ということはその議論においては明確にされない。
何か自然現象のように、ただのファクトのように、その最適解が体温もないまま提示される。
それを複数人で称賛し、結果それが「合意事項」となる。
ここには意思がない。
意思めいたものしかない。
それもリスクテイクを行った者が不明瞭化された状態での。
名無しと顔無し
群衆の中に埋もれてしまった意思。
雑踏に踏まれたままの責任。
普段は意識すらされないそれら。
でも、何かコトが起きると、それを引っ張り出し、よくわからないものをくっつけて、「誰か」に擦り付ける。
もしかしたら何の責任もない「誰か」に。
生きる能力の低下
群れの中では誰も失敗を表明しない。
成功体験ばかりを語る。
結果、集団としての「生きる能力」は低下していく。
僕は日本の現状に対してそのように考えている。
群れるな
群れを出よう。
責任を取ろう。
それが僕の言いたいことだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
責任を取る経験の不足。
また、それを行う他者への寛容。
これが日本社会には圧倒的に欠如していると感じています。
そのような経験が一切ないまま、いきなりド級の責任を取らされる社会。
そして、二度と復帰できない社会。
そんな中で、「失敗を恐れるな!」なんてよく言えたもんだぜ。
まずは小さな責任から。
それを取る経験から。
また、それをやろうとする人への称賛を。
というか、せめて叩かないよう静観を。
群れずに、強く生きていきましょう。