形よりも中身

エビデンスという名のエセ客観性
「エビデンス・ベースド(evidense-based)」という言葉やその趣旨のことが広く言われるようになってから(か)、「客観的に疎明できること」が過剰に重要視さていると感じている。
「(誰かに)説明可能であること」
「(誰から突かれても)反駁できること」
それが優先順位の最上位に置かれているように思う。
もちろん、説明可能性はとても大事である。
でも、そこだけに意識が向いてしまうと、それはそれで大きな問題が生じるのもまた事実である。
「数値化の問題(罠)」もそうだと思うのだけれど、金科玉条のようにエビデンス(と称されるもの)を扱い、それを絶対視する傾向は思考停止に繋がり、人間の可能性を狭めると僕は考えている。
今日はそんな「エセ客観性」についての話だ。
それでは始めていこう。
暗黙の了解の喪失
ちょっと前までは「形よりも中身が大事である」ということが、暗黙の内に合意されていたように思う。
もちろん形式も大事であるけれど、本当に大事なものは中身だよね、というような信憑をどの参加者も持ち合わせていたように感じている。
でも、現在は異なる。
中身はどうあれ、形式を整えることを至上とすること。
そういう人が増えたように思うのだ。
「正しさ」の中に潜む欺瞞
これが厄介なのは、一見するとそれが「正しいもの」のように見えることである。
反駁可能性を失くすべく、その事象にとって好ましい「エビデンス」が(恣意的に)集められ、そこに絶対的な客観性があるように多くの物事がプレゼンされる。
その分野に精通した人であればそこにある欺瞞に気付けるのだけれど、そうでない人にとっては気付けないような話の展開とその着地。
それがあちこちで生じているように思う。
双方合意の演劇
形式主義の蔓延。
それは行う当事者側にも、それを看過する側にも問題がある。
というか、それは舞台上で為される(双方合意の)演劇のようなものだ。
ある仕事を指示し、その中身が伴っていない場合、それを「めくられる」ことはその仕事を指示した者にとって望ましいことではない。
もちろんそれをあからさまにやると問題になるので、さもそのことに気付かなかったかのように、その他のエビデンスが示されていく。
それらによって、その仕事は一見成功したように見える。
「数値化の罠」によって、都合のよいエビデンスばかりが集められるから。
そして、そこには客観性が伴っているように見えるから。
でも、それは実際のところハリボテなのだ。
共犯関係の継続
しかしながら、それを指摘すると白眼視され、村八分にされる。
だから誰も見て見ないフリを続ける。
演劇は演劇のまま、皆がアクター(共犯者)として続けられる。
それが面白いかであるとか、記憶に残るものであるとか、そういったことは関係ない。
演劇が行われていること、それが重要なのだ。
そして、それは何も最近だけの話ではない。
先の大戦だってそうだったのでは?
大きな話にはなるが、そんなことを僕は考えてしまうのだ。
中身の重要性を説くと面倒くさがられる
科学を装ったもの。
客観性を帯びていて、誰もが納得的であると一見思われるもの。
そういうものが溢れすぎて、僕自身も段々と感覚が麻痺してしまっている。
そして、中身の重要性を説く度に、面倒くさそうな顔をされることにも段々とウンザリとしてきている。
それが実際のところだ。
いつか演劇は終わる
もちろん、お祭りが続いている間はいい。
いつまでも演劇が演劇のまま、その世界の中に留まれるのであれば、何も言う必要などない。
でも、そんなことは起こらない。
いつか終演の時間が来る。
幕が下りる。
その先の世界は?
僕にはよくわからない。
正しさや間違いだけではないのは確かだが…
ただ、それでも僕は形よりも中身が大事であると言い続けたいと思っている。
「王様は裸だ」と言い続けたいと思っている。
どんなにそれが疎ましく思われようとも。
正しいことは正しいし、間違っていることは間違っている。
もちろん、それだけでは世の中は成り立たない。
清濁併せ吞む、それは必要不可欠なことだろう。
たださ、と僕は思うのだ。
「もう少しそのバランスを考え直す必要があるのでは?」と。
「強く願わないから叶わないのだ」という宗教めいた話
たくさんの空騒ぎ。
「そこで踊らないことは、その場の空気を冷めさせる行為だ」
「そういうヤツは排除すべきだ」
いかにも日本的な流れ。
そこに「エビデンス」が乗っかり、それが「正しさ」となる。
そうでない者は「間違っている」と糾弾される。
「信じたいと願えば叶う、叶わないのはその信じる力が足りないからだ」
「お前のような奴がいるから、全体の信じる力が弱まってしまうのだ」
宗教みたいな話。
それを皆が真顔で迫ってくる。
どうかしてるぜ?
エビデンスと神話
いつか神風が吹くのかい?
いつか竹やりで戦車を打ち破れるようになるのかい?
たくさんの提示されたエビデンスは、僕には神話のように見える。
物語は終わるが、生活は続く
「いつまでも仲良く暮らしました」
それは良かった、と僕は思う。
それは何よりである、と僕は思う。
そして同時に、「そんなわけないよね」とも思う。
物語はいつか終わる。
でも、僕たちの生活は続く。
そこに形式主義などいらないのでは?
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
エビデンスと言われるものに対する懐疑。
「数値化の罠」というブログの中でも書きましたが、数値というのは切り取り方によってその見え方が大きく変わります。
都合の良い部分だけを抜き出せば正しいもののように見えるけれど、その期間を変えると反対の意味が生じる、なんてことは結構ザラに起こります。
でも、彼(彼女)らはそれを科学的だと信じている。
そんなものは科学ではないよ。
この国では「事実(fact)」から話を始めるということがどうにも難しいようです。
大事なのは「物語(myth)」であって、そこに適合するものだけが「事実」として認められる、というか。
「客観的」という言葉の客観性を疑いながら、仕事をしていきましょう。
