言うならやる(やらないなら言わない)

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非現実的な精神論が跋扈する世界

他のマネージャーを見ていて思うのは、「言ったのなら、最後までやれよ」ということだ。

マネージャー会議等で他の部署のマネージャーが業績不振の状況を打開するために「かくかくしかじかのことを早急にやります」なんて言っていると、「本当か?」といつも思う。

その場を言い逃れる為に言っているだけのことが多いし、そもそも「何でじゃあ今までやってなかったの?」と思うからだ。

更に悪いことに、業績不振の項目が多岐にわたっていると、「それを全部やる」なんてことまでのたまったりする。

冗談みたいな話だけれど、このような話は本当によく起こっている。

意気込みは買うけれど、どう考えても現実的でないことを平気で言ったりする。

そしてそのような精神論を良しとする風潮もある。

僕はこれがずっと不思議だ。

Do you know the meaning of “trade off”?

ビジネスの世界では当たり前の話だと思うが、「ヒト・モノ・カネ」には制限がある。

その制限の中でいかに成果を出すか、がマネージャーの腕の見せ所のはずだ。

その制限を超越して「全部やります」なんて言うのは、僕からしたら「思考停止」以外の何物でもないと思うのだけれど、往々にしてこういったことが罷り通る。

そして結果として「全部できない」

「ほら見たことか」と僕は思うのだけれど、それについて反省したり、次の対策を打つこともなく、なんとなくのまま、なあなあのまま、いけしゃあしゃあとまた違うことを言っていたりする。

そりゃ業績なんて上がらないよな

このような風呂敷を広げるだけ広げて、後のことは知ったこっちゃない、ということが日常的に起こっている現場に身を置いていると、まだまだ生産性改善の余地はあるよな、と思う。

そういった会議において、的を射たことを言うと「空気を壊すな」みたいな感じになるのが僕には不思議でならない。

精神が肉体を凌駕するみたいな精神主義は、プロアスリートのような限界まで肉体を鍛え上げているもの同士の争いの世界において、ようやく意味を成すものだと僕は思っている。

僕らレベルの世界、ましてやビジネスの世界では、もっと論理的に、数理的に、実質的に考える必要がある。

そして、それを踏まえた上でも「全部やる」というのであれば、その結果責任はきちんと負うべきだと思う。

(責任所在のなさ、分散性については、集団的決定における重大な問題点であると思うが、それを問題だと思っている人はあまり多くない印象だ)

繰り返し、繰り返し、繰り返し

責任という言葉が強いのであれば、検証、ということを事後的に行って、その効果を測定して次の戦略に活かしていくべきだと思う。

でもそれすらも行われない

またゼロベースから議論が始まる

そしてまた同じような精神論が罷り通る。

結果的にまた失敗する

以下、繰り返し。

永遠に、繰り返し。

やらないことを決めるのには勇気がいる

僕はマネージャーに成り立ての頃から、できることしか言わなかった。

できないことはできないとしか、言わなかった。

実績のない僕は、空気の読めないヤツ、というレッテルを貼られた。

若手がいきがってやがる、みたいに捉えられた。

そんな中で、再起不可能と呼ばれたチームを率いて5年間結果を出し続けてきた。

どっちが正しいんだ?

やらないことを決める、というのは勇気がいる行為だ。

それは捨てる、ということと同義だからだ。

総花的に「全部やる」という方が格好良く見えるし、「できません」というのは意気地がないように映るからだ。

でも、絞らないと、戦力を集中させないと、弱小チームでは成果を出せない。

戦力差がある場合には、一点突破をまずするしかないのだ。

「どのようにやるか?」まで言語化できる人は少ない

これを理解している人は少ない。

というか、理解していても、空気に負けて実行までできる人は少ない。

僕は物事をする際に重要なのは、「どのようにやるか」を言語化できることだと思っている。

「今日やること」を明確にできる、ということだと思っている。

それは現場の状況をわかっていないとできないことだ。

もちろん「何をやるか」ということも、「なぜやるのか」ということも大事なのだけれど、「どのようにやるのか」ということを説明できる人があまりにも少ない。

みんな「これをやらなければならない」とか「こういう理由だからやらなければならない」ということは言えるけれど、それを「どうやってやるのか」ということまで落としていくことはできないようだ。

だから、言葉が宙に浮く

その言葉には信頼性が付帯していない。

だから、チームが機能しないのだ。

責任が付帯した言葉だけを使おう

本当に自信のあることは当初上手くいかなくても、結果が出るまで続けるべきなのだ。

そこにはしつこさが必要になる。

論理と数値に裏付けされた粘りが成果を生む。

その覚悟がないのなら、最初からやるなんて言わなければいいのだ。

自分の言葉に責任を持つ。

責任が付帯した言葉だけを使う。

本当に簡単なことだ。

でも多くの人にはこれが難しいようだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今回の話をパトス(情熱)・エトス(信頼)・ロゴス(論理)の話に置き換えると、パトスばかりが先走っていて、他は空っぽという状態はよく起こります。

僕はこれを日本的精神至上主義だと思っているのですが、「失敗の本質」はいつまでも変わらないようです。

そのような民族的特徴(疾患?)を抱えているのであれば、それを埋め合わせられるような「枠組み」「仕組み」によって制御するべきなのに、どうも議論はそのような方向に進んでいく気配はなさそうです。

「空気」が支配する社会では、正論というのは水を差す行為ですし、「建設的」というのは「反抗」と同義ですらあります。

沈みゆく船の中で必要なのは、怜悧かつ冷徹な議論に基づいた判断です。

荒れた海を泳ぎ切るのに必要なのは、根性ではなくシンプルな浮き輪です。

同調圧力に潰されることなく、何とか生き残っていきたいものです。