心理的安全性を醸成する

自由に発言できる環境を作る

生産性の高いチームを作るためには「心理的安全性」が必要だ。

心理的安全性とは、簡単に言うと、自分の発言や行動の影響を恐れずに自由にできる(と思っている)状態のことを指す。

これは日本社会ではなかなか難しいことだし、100%に到達するのは不可能に近いとは思う。

でも、相対的に心理的安全性の高いチームを作り出すことは可能だし、少しの違いによって他のチームよりも圧倒的な成果を出すことができる。

一朝一夕にできるものではないことを承知の上で、今回はこのテーマで書いていこうと思う。

フラットな異論というものが許されない日本社会

同調圧力の強い日本社会(日本企業)において、人と違うことを言うのはリスクが高い行為だ。

異論というのは「私とあなたは違う意見を持っている(善でも悪でもない)」というだけの話なのに、「あの人は反抗的だ(悪)」という色を帯びてしまう可能性が高いからだ。

更に悪いことに、その当事者同士でない第三者(世間)たちが、寄ってたかってその異論を述べた人を叩きだす。

こうして1対多の状況、いじめの構図、が生まれる。

内容についての是非を問うのではなく、その「人となり」についての議論に終始するようになる。

傍観者たちも何となくその雰囲気に飲み込まれて、そのように振舞うようになる。

孤立感が強まっていく。

そういう状況を学生時代から目の当たりにしてきた大人たちは、自分がその対象にならないように、そつなく、色なく、行動や発言を「整えて」行う。

ある人の意見に「乗る」のがデフォルトの反応で、その意見に対して本当はどう思っているかを表に出すことはない。

その場の「空気」を壊さないことを第一条件として、コミュニケーションを行っていく。

コミュニケーションとは「繰り返す」ということと同義なのか?

僕は全く共感できないけれど、「私は敵ではないですよ」「あなたの味方ですよ」という毛繕いのようなコミュニケーションをコミュニケーションと呼ぶのが当世流だ。

そこに生じるものは、同じ意見のリピートでしかない。

エンドレスな繰り返しに過ぎない。

当たり前の話だけれど、そんな状況でクリエイティビティなんて生じる訳はない。

同じ意見をただひたすらに言葉を変えて繰り返しているだけだからだ。

インスピレーションインプロビゼーションなんて生じる訳はない。

出力は常に安定していて、平凡なものに留まる。

それが「一見仲良しに見えるチーム」の正体だ。

成果なんて上がるはずがない。

同調圧力を利用する

僕は異論を歓迎する

「そうきましたか」という感じ、自分の脳細胞の違う部位を使う感覚があるからだ。

ダイバーシティだとか、多様性だとか、綺麗ごとはみんな言うけれど、同質的な集団内において「変なことを言う奴」を排除しているのが現実で、そんな中において僕はそうでないチームを作ろうとしている。

そういう意味において、心理的安全性というのは他者と違うことを言っても(しても)自分が守られている、と感じられる状態と言える。

少なくともチーム内においては、自由な発言が許されている、と感じられるような環境を作ることがマネージャーの役割だ。

それはどんな意見についても「いったん乗っかる」という態度を続けることで作り出すことができる。

ノリツッコミではないけれど、マネージャーがどんな話にもいったんノルことで、メンバーは少しずつ「こんなこと言ってもいいんだ」というようにガードを下げていく。

最初の頃からメンバー同士でこれを行うのは難しい場合が多いが、対マネージャーにおいてまずこの心理的安全感を作り出す。

これは言わば、先述した同調圧力を上手く活かすものだ。

同調圧力は同じ意見について乗っかることを繰り返す行為だ。

僕の場合は違う意見についても乗っかることを繰り返す。

そしてそれを面白がる。

それによって、話は予想外の方向へ転がり出していく。

コミュニケーションとはインプロビゼーションのことだ

1対1であれば、それはある程度予測可能な範囲のままだけれど、これが3人になり、4人になれば、議論の行方は本当にわからなくなる。

そのアドリブ性を楽しんでいく。

それぞれが違う楽器を持って、違うフレーズを重ねていく。

そこで生まれるインプロビゼーションを僕はコミュニケーションと呼びたいと思う。

それはその場にしか、その時にしか、生じない種類のものだ。

とにかく泳がしていく。

部室のノリのようなものを大事にする。

その自由な発想をビジネスに適用していく。

異質性を集めたものをチームと呼ぶ

その為には心理的安全性が何よりも重要だ。

何を言ってもいい、馬鹿なことを言ってもいい、アホくさいことをやってもいい、そういうチームを作っていく。

それを信頼と僕は呼ぶ。

変な奴らの混成を僕はチームと呼ぶ。

決して仲良しではないが、僕らはそれぞれに認め合っている。

そう、ラグビー日本代表のような混成チームが理想だ。

そういう状態でしか強いチームは作れないのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今の若い子たちを見ていると、とても生きづらそうだな、と感じます。

それは「わかる」「共感する」というのがコミュニケーションのデフォルトであるという観念に過剰に縛られているように感じるからです。

その背景には、彼(女)らが過剰に「わかる! わかる!」と表現(演技)しなければ疎外されてしまう可能性がある(高い)という状況があるのだと僕は考えています。

本稿の文脈に沿って書くのであれば、そこには「心理的安全性」がない。

異論は認められない。

その息苦しさを一緒に働いているとよく感じます。

だからこそ僕のような変なことを言う奴が慕われるのかもしれません(勝手にそう思っているだけかもしれませんが…)。

僕が日々伝えようとしているのは、意見が違っていても機嫌よく働くことはできる、ということです。

その齟齬を乗り越えようとするところにコミュニケーションの面白さがある、ということです。

奥底に閉じ込めたままの個性とやらを引っ張り出すことで、僕はチームを差別化させて、結果を出そうとしています。

参考になる部分があれば幸いです。