マネージャーにカリスマ性は必要か?

カリスマ性は不要

5年前のマネージャーに成り立ての自分へ言ってもたぶん伝わらないと思うのが、「マネージャーにカリスマ性は不要だ」という表明だ。

「むしろ余計だ」と言っても言い過ぎではないような気さえする。

それはなぜか?

部下が委縮するから、だ。

もう少し詳しく説明する。

できないことがたくさんあることを受け入れることからチームマネジメントは始まる

チームマネジメントにおいて重要なことは、チーム全体の力を上げることだ。

2、3人くらいの単位であればマネージャーのカリスマ性によってチーム全体をカバーできるのかもしれないけれど、10人くらいになるとそれは現実的ではない。

1人1人の1日の行動を全て指示するなんてできないし、マネージャー1人で10人分の仕事をするのも不可能だからだ。

そして外部環境もどんどんと不確実性が増していく。

このように全能の神でないマネージャーには「できないこと」がたくさんある。

それを受け入れるところからチームマネジメントは始まる。

カリスマ的マネージャーは部下の自発性を阻害する場合がある

マネージャーはそんな状況下でも「結果」を出さなくてはならない。

ではどうするか?

部下を活用するしかない。

彼らが自分自身ですべきことを考えて、行動して、成果を持ち帰ってくるような「仕組み」を作るしかない。

そうは言っても、そんな優秀な部下ばかりではないのも事実だ。

「自分で考えることなんてできない」そういう部下もたくさんいる。

ここで、カリスマ的マネージャーは自分が出張ろうとする。

部下ができないなら、自分が、となる。

これ自体は決して間違っている訳ではない。

組織としてそれを求められることも現実的にはよくあることだ。

でもそこで必要なことは、自分が出張ることではなく、どうやったら部下が自分で動くようになるか、を考えることだ。

もしかしたら、自分がその自発性を阻害しているのではないか、と疑うことだ。

先回りするのを控える

カリスマ的マネージャーは、ビジネスにおける「正解」や「定石」を多く知っている。

だからこそ、部下がこれからしようとしている行動が、「良いもの」か「そうでないもの」かを瞬時に判別したくなる。

そして実際にストップをかけたりする。

「もう少しこうした方がいい」「それはやめた方が良い」と。

とても建設的なアドバイスのように見える。

でも、これらはあくまでも「部下から求められたら」行うべきだ。

先手を打って、先回りをして、言うのは思いとどまった方が良い。

ほんの少しの違いであるけれど、部下を自発的に動かす為にはこの違いをきちんと認識しておく必要がある。

取り敢えず口を出さずに、状況を見守ってみることが肝要だ。

善悪判断ではなく、意見表明を行う

でも状況を見守ったのちに現実に起きることは、部下が自分が想像していた通りの失敗をやらかして帰ってくる、という事態だ。

「ほら見たことか」とカリスマ的マネージャー思う。

そしてまた「建設的なアドバイス」を行う。

繰り返しになるが、ここでも先回りはしない方が良い。

まず部下に「なぜ失敗したのか?」を考えさせ、言葉にさせることが重要だ。

もう少し正確に言うのであれば、それを部下が失敗と考えていないのであれば、それは失敗ではないのだ。

そのビジネスの成否はマネージャー側の判断によるものではなく、あくまでも事実中立的なものだ。

そういう意味においては、マネージャーが褒めたり叱ったりするのもちょっと違うような気がする。

何度も言及しているように、マネージャーと部下は対等な関係であり、あくまで職務上その立場を演じているに過ぎないからだ。

だから、マネージャーとしては、それが「正しい」とか「間違っている」とかの善悪判断ではなくて、「正しいと思う」「間違っていると思う」という意見表明、をすることになる。

そこでの話し合いを通じて、そのビジネスをひとまず完結させる。

そこまでを1サイクルとする。

これが「部下に任せる」ということの意味だ。

マネージャーは遠景でいい

こうすると、部下は主体的に行動するようになる。

カリスママネージャーの父権的な世界観から逃れて、自由に伸び伸びと動くようになる。

マネージャーは遠景となっていく。

マネージャーは不必要になっていく。

これが「望ましい状態」だ。

究極的にはマネージャーが不要になる、というのが僕の理想のマネージャー論だ。

もちろん何もしない訳ではなく、アイディアの「壁打ち」の相手になったり、下らない雑談の相手になったりはする。

でもそこにおいてのマネージャーの役割は主役でなく、背景だ。

環境と言ってもいい。

多様な生物種がいる方が生き残る確率は高まる

だからこそ、カリスマ性は不要なのだ。

カリスマ性があると、部下はマネージャーの顔色を伺うようになる。

試験問題のような「正解」を求めるようになる。

それは旧時代においては有効だったのだろうが、現在のような「正解のない時代」にはむしろ邪魔になってしまう。

10人部下がいれば、10通りの動き方が必然的に生じてくるし、それは先の見えない現代においては、「当たる確率が増える」ことと同義であると僕は考えている。

カリスマ性は動き方の1形態に過ぎないし、もしかしたら時代不適合的かもしれないからだ。

生物の進化の歴史に置き換えるまでもなく、外部環境の変化が速く大きい時代には、多様な生物種がいた方が、生存の確率は高まる。

見当違いの動きが大きなビジネスになったりすることが起こりうる。

実験室で新物質を探すように、たくさんのトライ&エラーを繰り返していく。

失敗なんて織り込み済みで、マネージャーが対処すればいいのだ。

そんなカラフルで統一性のないチームを僕は目指している。

「カリスマ性」などさっさと捨ててしまった方がいい。

「部下達」のカリスマ性を伸ばした方が良い。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

部下の力を引き出す、なんてことを書くと、何を甘いことを、と言われるのが現実です。

そんな悠長なことを言っていないで、マネージャーが稼げよ、と言われるのが関の山です。

大きなことを言わせてもらえるのであれば、僕はこのような考え方が日本の低生産性の主因であると思っています。

このようなタイプの「自称」マネージャー達が、マネジメントというものの本質を履き違えているからだと思っています。

多分彼らにはマネジメントに専念した経験がなく、その後にどのような世界が広がっているかがわからないのでしょう。

手前味噌ですが、僕はそんなマネージャー達を尻目に、楽しく愉快に圧倒的な成果を上げてきました。

それは彼らから言わせば、「運が良い」だけのようです。

それでも、その運を引き寄せられたのは僕のマネジメント手法のおかげだと自分では思っています。

大事なのは、プロセスではなく、結果です。

カリスマ性のかけらもない僕は、これからもこのスタイルで結果を出していきたいと思っています。

仲間に加わって頂けたら幸いです。