ヨソモノで結構
「ルールの森」への対処方法
内側ではまかり通っていても、外側から見るとおかしなルールというのはたくさんある。
ルールを守ることが目的となってしまっていて、「なぜそれをやっているのか」がわからなくなってしまったまま惰性でそれを続けている。
更に悪いことに、この状態で何かミスが起こったりすると、その上に更に新しいルール(屋上屋)が作られたりする。
結果として、まるで下手なSEが書いたプログラムのように、継ぎはぎだらけのルールが出来上がる。
それを金科玉条のように守ったり、守らせたりする。
このよくわからない構築物、ルールの森のようなものに対してのアプローチは2つある。
1つは順化すること。
もう1つはヨソモノのままでいること。
僕は後者を選ぶ。
今日はそんな話だ。
ルールを日常化することがメンバーへの入会条件?
順応というのはポジティブな言葉として受け止められる。
僕からしたらそれは服従というような意味合いを帯びているものだけれど、世間的にはそうは呼ばないみたいだ。
ルールを疑うことなく、それを体に馴染むように取り入れていく。
頭で考えることなく、自然にそれができるようにその動作を反復させていく。
結果としてそのルールを身に付けた人は「メンバー」としてそのコミュニティに迎え入れられる。
暖かくとまではいかないかもしれないけれど、少なくとも敵対視されることはない。
同じ思考を持つ仲間だと認められる。
こうして同質的な集団が形成されていく。
脳で考えるのではなく、脊髄反射的に動いていく組織が出来上がる。
ルールは「当たり前」になる。
ルールは「日常」になる。
それを繰り返していくことが「仕事」になる。
素晴らしい、素晴らしい。
そんなので成果なんて上がるはずがない。
でもそれに気づくことはない。
永遠に。
批判的思考を持たないチームに成長はない
人間は群れたがる生き物だ。
それは否定しない。
でも自分達のいる環境をアップデートできるかどうかということに対して意識が向いていない組織に伸びしろはない。
繰り返していくこと、それ自体が仕事になってしまっている組織に成長はない。
別にチーム内にコンフリクトが必要だとは思わないけれど、少なくとも批判的思考を持つメンバーがいない状態というのは健康的とは言えない。
何かやめられるものがないのか。
無駄に時間を浪費させている仕事はないのか。
それを適時適切な方法で考えられるチームは成長していく。
環境変化にも対応できていく。
屋上屋を重ねていくのではなく、組成自体が変わっていく(進化していく)、そんなイメージだ。
「批判」と「批難」
日本においては、「批判」というのは「批難」と同じ意味のように扱われがちだ。
何かに疑問を持つというのは悪いことであると捉えられがちだ。
教育がそうさせるのかわからないけれど、システムや制度に対して、従順に盲目に従っていくことが良しとされる。
それに対して疑問を持ったり、改善しようとしたり、声を上げたりすると、白い目で見られる。
あの人は「ちょっとおかしな人」「変な人」というような扱い方をされる。
「改革者」=「面倒な人」
もちろん「批難」ばかりしている人はその通りなのかもしれない。
「べき論」ばかり述べて、現実的な解決策を提示できない人は腐るほどいることも事実だ。
でも建設的な議論も十把一絡げにされてしまってはたまったものではない。
何かを変えようとすると、「ああ、面倒くさいこと言っている」というような雰囲気になる。
そのような空気が前例踏襲を後押しする。
「改革者」というのは「面倒な人」と同義で、「迷惑な人」というポジションに追いやられてしまう。
不満は言うけれど、現状を変えようとはしない
それで成果が出ているのであれば、僕がとやかく言う意必要はない。
皆が満足して働いているのであれば、それに対してどうこういうつもりはない。
でも、みんな不満や愚痴ばかり述べて仕事をしている。
それなのに、現状は現状だと受け入れてしまっている。
少しであっても現状を変えるという発想すらなくて、「ルールはルールだから」「そういうものだから」という考え方に縛られてしまっている。
そしていよいよ立ち行かなくなると、全てを一気に変えて解決しようとする。
今までのことは全てなかったことにして、一発逆転を狙おうとする。
徐々に変えていくとか、段階的に移行していく、という発想はなくて、イチかバチかみたいな選択肢を取ろうとする。
これが日本の歴史だ。
一段高い視点から抽象化する
僕はシステムや組織の中においても批判的思考を持つことはとても大事だと思っている。
それは何も反対することが良いことだ、ということではなくて、改善できることはないのか、おかしなところはないのか、という観点から自分達の組織を見られるということ自体が知性の発露の一形態であると考えるからだ。
目の前の具体性ばかりに気を取られるのではなく、一段視点を上げて抽象化してみる。
「そもそも論」を取り入れて、自分の行動が理にかなっているものなのかを順次点検してくいく。
環境はどんどん変わっていくので、それに合わせて制度も変更を行っていく。
そういう視点がとても大事なのだ。
進化とは外部環境に適応した生物の結果だ
そういう意味においては、現段階の日本社会においては、ある程度「ヨソモノ(アウトサイダー)」でいること、もしくはそういう人を組織の中に取り入れること、が必要なのだと思う。
多様性、という綺麗な言葉で片づけるのではなくて、実際に違う視点を持った人間をチームにいれて、その「おかしな」発想を面白がること。
それこそが環境に適応するチームの進化に繋がる。
進化とは外部環境に対して適応してきた生物の結果だ。
狙ってできるものではない。
様々な生物が淘汰されてきて、残っているのが現在なのだ。
僕はヨソモノで結構。
面白いことをこれからもやっていくつもりだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
そろそろ「みんなと同じことが善である」という風潮を変えていかなければならない段階に来ているような気がします。
同じ色に染まることは必ずしも正しいことじゃない。
特に環境変化が激しい場合には。
僕は生物種の進化の歴史を振り返るたびにそんなことを考えてしまいます。
集団が様々な環境の変化に対して生き残る為には、色々な特徴のあるものがたくさん含まれている方が確率論的に有利である。
それなのに同質性や同調圧力みたいなものによって、僕らはどんどんと画一的になるように「躾けられて」います。
「個性」などと声高に言わなくとも、僕たちはそのままで面白いはずです。
それを活かしたマネジメントをこれからもやっていこうと思います。