エセ平等主義と同調圧力が職場をダメにしている
平等と悪平等
皆さんは平等という言葉にどのようなイメージを持つだろうか?
どちらかというとポジティブなものを感じるのではないだろうか?
僕もそうだ。
誰もが一様に同じ状態(差別のない状態)であること、たとえ出自や貧富の差があったとしても、同じ人間として尊重されるべきであること、そんな風に捉えている。
それは差別がこれだけ蔓延る世の中においてはとても素晴らしい美徳であり、僕たち日本人がこれからも守るべき価値観であると思う。
僕たちはみな同じような存在としてこの世に生を受け、同様の権利を有している、そう感じられる社会というのはどう考えても望ましいものだ。
でも一方で、その平等という考え方が僕たちを生きづらくしているのではないか?
それは悪平等というべきものなのではないか?
今日はそんな話をしてみようと思う。
「出る杭」にならないように
人間には能力差がある。
これを否定する人はいないだろう。
では、その能力差から生じる成果によって処遇に差がつくのは当然である、という考え方はどうだろうか?
これについては異論がある人もいるのではないだろうか?
もう少し意地悪な言い方をする。
あなたの職場の同僚が、実際に能力があなたよりも高くて、あなたより高い成果を出しているとして、それをその同僚が「高い能力から生じた高い成果であるので、処遇が良いのは当然である」という言い方をしていたらイラっとするのではないか(その能力が天賦の才でなく本人の血の滲むような努力から生じたものであったとしても)?
もう少し分かり易く言うと、日本においてこのような場面における適切な反応の仕方(正解)は、「皆さんのおかげです(てへっ♡)」であり、無意識に僕たちは「出る杭」にならないように躾けられている訳だ。
悪目立ちと村八分
学校生活では悪目立ちしないように、授業中に手を上げて意見を述べるなんてことはしないことが当たり前だった。
小学校の頃は自由闊達だった少年も、高校生になる頃には一人前の羊になっているものだ。
本当は上手に英語の発音ができるのに、目立つのが怖いからわざと下手に発音をしたりする。
会議でも当たり障りのないことばかり言う。
能力をひけらかすと、村八分にされるから。
仲間外れは何よりも怖いから。
世間様が許してくれないから。
成果を出している奴はズルをしているに違いないと考える社会
僕たちはみな平等だ。
であるからして、同じ成果を出すべきだ。
そうじゃない奴はズルをしているに違いない。
そんな奴は罰してしまえ。
妬みや嫉みややっかみ。
同じでなければいけないという足の引っ張り合い。
それが僕たちの職場を(ひいては社会を)ダメにしているのではないか?
僕は最近そんなことを考えている。
「世間」の論理と評価軸
人間はそれぞれ違う個体だ。
それも否定する人はいないだろう。
でも日本社会においてはできるだけ個体差を揃えることが望ましいのだ。
同じ年齢であれば、同じくらいの成果を上げるべきで、目立ってはいけない。
能力があってもひたすら隠し続けなくてはならない。
「いや、僕なんてまだまだですよ(てへっ♡)」と答えなければならない。
評価軸は外部にあって、しかもその外部は「閉じて」いる。
手の届く範囲の「世間」でしか通用しない論理によって僕らの行動は規定される。
そこからはみ出したら、のけ者にされてしまう。
平等と同調圧力の化学反応
平等は素晴らしい。
でもそれが同調圧力と化学反応を起こすと最悪だ。
「自粛警察」もその一例だろう。
「非国民」という言葉もきっとそうだ。
僕たちは未だに「世間様に申し訳が立たない」という観念から逃れることができない。
「人様に迷惑を掛けるな」という呪いから逃れることができない。
個人として自立できないまま、世間と心中する。
だから自殺者が後を絶たないのだろう。
裕福だと言われる社会の不健康な日常。
もうやめにしないか、そういうの。
平等という観念が僕たちの生き方を縛っているのかも?
先述したように、このような考え方が日本社会の安定に貢献していることは否定しない。
僕らは震災が起きても暴動や略奪なんてしないし、相手の状況を慮って行動できるのもとても素晴らしいことだ。
でも一方で、それは僕らの生き方を縛っている。
僕らは世間並でなくてはならないし、みんなと同じ行動を取らなければならないし、他人の顔色を窺い続けなければならない。
職場で高い功績を上げてもひけらかしてはいけないし、金メダルを取っても応援のおかげだと言わなければならない。
僕自身にも強くこびりついているこのような傾向を少しだけ緩やかなものにすることはできないのだろうか?
「正義」は最強だ
平等と同調圧力は「正義」の観念と親和性が高い。
正義の観念は世間から突っ込まれどころがない最強のフレーズで、それは裏返すと世間がいかに強いかを端的に表している。
僕たちは僕たち自身を縛り続けて、窮屈なものにしている。
僕らが話す言葉に主語がないことが多いのも、自分の意見を述べることが不得手なのも、そういった目に見えないエセ平等主義と同調圧力がそこに漂っているからだ。
それを僕らは空気と呼ぶ。
世間に抗いながら
空気を読めよ。
それは相手を黙らすのにはうってつけの言葉だ。
僕は自分のポジションを明確にして話をしたい。
空気を読まずに、忖度をせずに、自分の言いたいことを言ってマネジメントをしていきたい。
それは強い世間に潰されるだろう。
平等主義と同調圧力によって排斥されるだろう。
それでも。
このままでいいはずがない、と僕は思っている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
工業化時代とポスト工業化時代では求められるものが異なります。
本文内で書いたような我々の思考様式(行動様式)は工業化時代に適合的だったのでしょう。
結果として僕たちは(もちろん血の滲むような努力の上で)成功することができた。
それは否定しません。
でも、その成功体験ゆえに、僕たちはポスト工業化時代に適合できていないのではないか?
最近はそんなことを考えています。
自粛、という言葉がこんなにも強い効力を持つことが現代日本の生きづらさを端的に表しているようにも思います。
僕たちは誰かに合わせるのではなく、もう少し自分の頭で考えることが必要であり、それに伴うリスクも同時引き受けることを学ばなくてはならないのでしょう(そしてそれをきっと成熟と呼ぶのでしょう)。
必ずしも外国が素晴らしい訳でもないし、ないものねだりであることは承知の上ですが、もう少しこの「世間感」が緩和されたらいいなと僕は考えています。
賛同していただけたら幸いです。