本質的な仕事をする
クソ仕事と本質的な仕事
世の中の大半の仕事は「クソ仕事」である。
ましてや管理職の仕事においてはその比率は更に高くなる。
その中で「本質的な仕事」をする為にはどうしたらいいのか?
それが今回の話となる。
結論としては、(代わり映えしないけれど)先に成果を出しておく、ということになる。
それでは書いていこう。
ホワイトカラーの仕事の大半は「クソ仕事」
現代は何かと「意味」を探したがる時代である。
それは仕事においても当然に当てはまる。
でも、残念ながら現代の仕事というのは意味を内在しない「クソ仕事」が大半である。
「クソ仕事」というのは、やってもやらなくても何も世界は変わらないし、やっている当人もその何も変わらないということに対して自覚があり、かつそれを辟易している、そんな仕事のことを指す。
乱暴に言うと、大抵のホワイトカラーの仕事というのは「クソ仕事」なのだ。
メシのタネを得る為だけの仕事。
屋上屋を重ねていくだけの仕事。
たちが悪いのは、それは確実に精神を蝕んでいくことだ。
意味を求めることは軟弱なのか?
ある程度の年齢以上の社員にとっては、そんなことは「当たり前」で、そもそも仕事というものはそういうものだ、と捉えているようなので、ここでの葛藤はないように見える。
彼らは「意味」を求める人に対して「軟弱である」というような印象を持つ。
ただ、僕が思うのは、それはそれで問題である、ということだ。
その仕事にはパフォーマンスがない。
ただ「こなす」だけの仕事には、魂が宿らないので、高い成果に繋がることはないのだ。
被害者面をしないこと
社畜論に対して僕が共感を持ちづらいのは、与えられた環境は自分の力ではどうすることもできない、それなら粛々とその指示命令に従って畜生のように働いた方が良い、むしろそういう態度こそが大人の取るべき態度である、という諦めと自嘲と自負心がないまぜになっているところにあるのかもしれない。
僕はある程度は外部環境というのはコントロール可能であると思っている。
もちろん大きな流れみたいなものに逆らうことはできないけれど、少なくとも自分のテリトリーというか、近い範囲のところについては、変えることができると思っている。
これは「被害者」というスタンスを取らない、ということと関係しているのかもしれない。
何かにつけて「自分は被害者である」「悪いのは外部である」というように思うことで、自己を防衛しようとする人が多いけれど、僕は「確かにそういう側面は多分にあるよな」と思いながらも、全面的に賛成するには抵抗感がある。
もしかしたらそれは価値観の問題に過ぎないのかもしれない。
ただこのような受動的な姿勢では、単純に「人生はつまらないだろうな」と思ってしまうのだ。
志向することの重要性
僕は外部環境という制約の中で、「どうにかして面白く仕事をする方法はないだろうか」と考えることに魅力を感じる。
それは僕の天邪鬼的な性格が関係しているのかもしれない。
逆張り的なスタンスを好みがち、という性向もきっと関係しているだろう。
多くの人達が、顔色を失って、感情を消しながら働いている中で、そしてそれを仕方のないことだと諦めている状況において、僕はそれでもどうにかならないか、と考えながら仕事をしている。
結果は同じかもしれない。
でも、大事なのは(何度も言うことだけれど)「志向する」ことなのだ。
そちらの方向に意思を向けること(実際にそうはならないかもしれないけれど)。
もしかしたらそれは可変的なものなのかもしれない、と思うこと。
それが不条理な環境に順応するには必要な考え方であると思う。
クソ仕事から身を守る為には成果が必要だ
これだけ意味のない「クソ仕事」が溢れている環境で、「クソだ!」と叫ぶことは簡単である。
でも、1%くらい「クソじゃない仕事」ができる可能性はないか、それを探るところに僕は仕事の面白さがあるのではないか、と考えている。
そうは言っても、色々な人は色々なことを言って、どうしようもない仕事を押し付けてくる。
どう考えても意に沿わない仕事をやらせようとしてくる。
そういう時に、僕が大事にしているのは、「文句を言える状況を先に作っておく」ということだ。
組織の欲しがるものを先に差し出しておく
僕が成果に固執しているのは、それしか身を守る術がないからだ、とも言える。
大抵の場合、僕は先回りして、組織が求めるものをやってしまうようにしている。
「はいはい、これが欲しかったんですよね?」ということをもう差し出してしまう。
その後に好きなことをやらせてもらう。
それでもとやかく言ってくる輩は一定数いるので、僕は数字を提示して、「何か文句ありますか?」と言う(これは比喩だ。実際には言うことはないけれど、無言の圧力でわからせるようにする)。
これで意に沿わない仕事が自分のところにやってくる順番をだいぶ遅らせることができる。
というか、回ってくる途中でうやむやになってしまう(それはその仕事が本質的な仕事でないからだ)ので、本質的な仕事に集中することができるようになる(結果として成果も更に上がることになる)。
これの繰り返しだ。
このリズムをどこかのタイミングで作ってしまえば、後はそのリズム通り仕事をしていけばいいのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
自分が若手の頃に苦しかったのは、自分が何者であるかという証明書(履歴書)がなかったからだ、と思うことがあります。
今となってしまえば、僕の後ろには成果の蓄積があって、それを見て貰えば僕の言っていることが戯言ではないことがわかってもらえるのですが、若手の頃は実績もない「ただ生意気な奴」でしかなかったので、これがとても大変でした。
組織が言ってくる不条理で無目的で意味のない仕事を淡々とすることができる人はこんな悩みなんてないのかもしれませんが、僕はそういうことに我慢ができない人間なので、成果というものに必要以上に固執してしまうのでしょう。
いい仕事をする為には、成果が必要です。
ご賛同頂けたら幸いです。