感情のマネジメント

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多様化の裏側で

リモートワークの普及の影響か、時代の変化なのかはわからないけれど、自分も含めて働いている人達のメンタルが不安定になってきているように感じている。

孤独感というか、疎外感というか、アノミー感というか。

チームとして働いていても、以前のような一体感はなく、何となく個々人がそれぞれ寄り集まっただけ、みたいな印象を受けることが増えている。

個人の自立と言えば聞こえはいいけれど、分断されているような感じを受けながら日々働いている。

年功序列の崩壊や成果主義の導入、働き方改革や多様性の尊重、などによって、職場には様々な背景を持つ、年齢や性別や国籍などがバラバラな人達が働くようになった。

それはそれで望ましいことだけれど、失われたことがある。

そしてそれを補うためには感情のマネジメントを行わなければならない。

今日はそんな話をしていく。

僕はむしろウェットなマネージャーなのではないか?

僕は効率性や論理性を重んじる(ドライな)マネージャーであると自覚している。

でも周りを見渡すと、自分はむしろ感情面や情緒面を重んじる(ウェットな)マネージャーなのではないか、と思うことがある。

もちろんそれは車の両輪であって、どちらも重要であるので、バランスを取りながら仕事をしていくというのは、別におかしなことではないし、その時々のチームの状況に応じて、どちらかに重心が傾くというのも別に変な話ではない。

ただ、それでも(そのようなことを考慮しても)、僕は感情面を重んじているのではないかと思うことが増えてきた。

効率性を突き詰めれば突き詰めるほど、繋がりが必要となる

パラドックスのようではあるけれど、効率性や論理性を考えれば考えるほど、(現在の労働環境においては)感情面や情緒面をケアしなければいけないのではないか、そんな風に考えている。

その理由は、僕たちは社会的動物であって、何だかんだ言って、繋がり連帯みたいなものを仕事においても求めているから、という至極当たり前の話になる。

それは何も「みんな仲良く」ということではない。

そんなものは不可能である。

ただ、弱い紐帯というか、ちょっとした繋がりみたいなものまでなくなってしまうと、職場というのはやっぱり機能しづらいのだな、ということを最近よく思うのだ。

ちょっとした繋がりというのは、声掛け雑談冗談の類近くの席の人と気軽に言い合える時ににやにやしたり、大声で笑ったり、そんな当たり前のものである。

でも、最近はこれすらも失われつつある。

僕の職場ではないけれど、隣席の人とのコミュニケーションはチャットでする、なんて話も聞くし、リモートワークであれば、そんなものは当然ですらある。

それによって、余計な時間を取られなくて済むことは確かであるけれど、本当に生産性は上がっているのだろうか。

僕はそこに疑問を持ち始めている。

雑談を禁止するという安易な解決策

難しい話をすると、これは新自由主義の限界、みたいな話になるのかもしれない。

効率性を重視しすぎたことによって、かえって効率的ではなくなってしまうような状況。

もう少しマネジメントレベルの話をすると、職場での雑談を禁止するマネージャーは多いけれど、僕はこれに反対である。

効率性という観点から見ると、雑談というのは無駄話と同義であって、その時間に仕事をすれば生産性は向上するでしょ、というのが雑談を禁止するマネージャーの言い分であるようである。

一見すると「正しいこと」を言っているように見える。

でも、本当にそうなのだろうか?

迂回路を通る

僕は雑談というのは創発性を生むために不可欠であると考えているし、それは生産性の向上にも繋がるものであると考えている。

それはもちろん今回のテーマでもある、職場におけるメンタルの安定化にも繋がる。

人間がチームで働くことの意義は、一人ではできないことをチームによって実現すること、足し算ではなく掛け算的な力を発揮することであると僕は考えている。

社会的動物である僕たちは心の繋がりみたいなものを求めていて、職場での繋がりというのは、1日の大半の時間をそこで過ごすこともあって、重要な役割を占める。

誤解して欲しくないのは、僕はそこに安らぎであるとか癒しみたいなものを期待している訳ではなく、あくまでも生産性向上の為に(迂回するようではあるけれど)感情のマネジメントが必要である、ということである。

コンピューターみたいに論理演算の累積によって僕たちは成り立っている訳ではないのだ。

正しさや論理的整合性だけで人を動かすことはできないのだ。

昭和的共同体でも、令和的分断でもなく

僕がマネージャーになって学んだことは、人を動かすということはとても繊細な仕事であり、それができる人はそれほど多くない、ということである。

そしてマネージャーというのは往々にして自信過剰であって、自分のマネジメントが効果的でないことを自覚することは殆どない(これには僕も当てはまるだろう)、ということである。

僕は昭和的共同体ではなく、令和的分断でもなくて、「自治」みたいなものを構築したいと考えている。

その為に今日も部下達の話を聞き、自律的で前向きなチームの運営をしていくつもりである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

「自治」というのが最近の僕のテーマです。

資本主義でもなく社会主義でもない、成熟した市民による資源配分の最適化。

そんな国家レベルの話は僕には実現不可能ですが、少なくとも僕が働いているチーム内においては何とか実現できそうです。

自由には責任が伴うし、権利を主張する為には義務を負わなければならない。

そんな当たり前のことを当たり前に感じられる大人のチーム。

そんな風に機嫌よく働ける環境を構築したいと思っています。

ご賛同頂けたら幸いです。