正直者が馬鹿を見る職場だけはやめよう

頑張った者が頑張ったことによって周囲から疎外される社会

あなたはマネージャーになってどのようなチームを作りたいですか?

僕の答えはこうである。

「正直者が馬鹿を見ることがないチーム」を作りたい。

正直者が馬鹿を見る、というのは言葉通りの意味で、頑張った者がその頑張ったことによって周囲から疎外されたり、評価が下がったりしてしまうようなことを指す。

そんなことが実際にあるのか?

いや、よくあるのだ。

今日はそんな話をしていく。

クールの履き違え

これは日本だけの現象ではないのかもしれないけれど、僕たちは何となく頑張っている人を嘲笑する、それがクールである、みたいな文化に育っているように(僕は)感じている。

これは学生時代からもそうで、「なんかあいつ張り切っちゃってるな…」というのは、蔑みの対象となるのだ。

周囲の空気を読めないイタい奴、というか。

同調圧力付和雷同、まあ言葉は何でも良いのだけれど、僕たちは「みんな一緒感」みたいなものを過剰に欲求する民族であるようだ。

その中で抜きんでようとする者は、「出し抜いている」「ズルいことをしている」みたいな評価を下され、悪い場合にはイジメの対象にすらなる。

これは学生から社会人になっても変わらない。

もちろん幾分か緩和されてはいるものの、同様の傾向を保持したまま働いていることが多いのである。

こうやってまた一人有望な若手が潰されていく

例を挙げよう。

ある若手が、本人の努力(それに加えて若干の運)によって、部内でトップの営業成績を上げ、それを見た本社の人間が、営業推進企画のプロジェクトチームのメンバーに抜擢したとする。

そのプロジェクトは営業力強化の為の時限的チームで、現状の仕事に加えて、web会議など月2回くらいの仕事があるとする(社内兼業みたいな感じ)。

全国から似たような境遇の若手が集められて、次世代の営業方法はどうすべきかみたいな話を議論して、それを現場にフィードバックすることで、現場も活性化させよう、という良くある話を想定する。

皆さんの想像の通り、この若手は当初は熱意に燃えてプロジェクトチームの仕事にまい進するだろうけれど、現場の人達が冷めていることを徐々に感じ取る中で、だんだんとその意欲を失っていき、いつしか「当たり障りのない仕事の仕方」の方がチームには受け入れられるのだな、ということに気付いていく。

上司や同僚の妬みや嫉みやっかみ、「実力じゃなくて運じゃないか」という誹謗中傷、「そんなことやってる場合かよ!」というもっともらしいご意見、などなどによって、その若手の向上心はどんどん削がれていく。

そのような挫折を何度か経験する中で、いつしかその若手も凡庸な若手の1人となる。

その方が働きやすい、ということに気付くからである。

こうやって僕たちは「下方修正」されていく。

上方で均一化するのであればまだマシであるけれど、そこには努力が必要となるので、往々にして下方での同一化という形に落ち着くことになる。

皆が斜めから物事を見るようになり、シラケた雰囲気がチームに漂うことになる。

「何熱くなっちゃってんだか…」というような、テレビドラマみたいな状況が職場に蔓延するようになる。

これでは成果の向上は望むべくもない。

職場で浮くのは(マジで)キツい

成果主義が難しいのは、成果尺度を正確に規定することが困難であるだけではなく、現場のこのような下方修正圧力とも言うべきものが関係しているのだと僕は考えている。

本社の人達にはわからないかもしれないけれど、毎日出社する職場で「浮く」というのはなかなかしんどいことである。

それが「よそよそしい」くらいの程度であれば何とか耐えられるかもしれないけれど、明らかに「嫌われている」のであれば、そこで生き残っていく為には強靭なメンタルが必要となる。

若手であれば尚更である。

下らないマウンティング

僕は自分が営業をしていたこともあって、マネージャーになった当初には「出来る部下」に対してマウントを取ろうとしていたような気がする(それこそ上記した嫉妬心だ)。

「オレの方が凄い」ということを折に触れて示そうとしていたような気がする。

それは間違いである。

というか、実際に自分の方が凄くても、「いやいや凄いね。よく頑張ったね」ということを言いながら、その部下をどんどんと伸ばしていくべきなのだ。

そしてそれを周囲も「当たり前である」という環境を構築していく(営業職でさえこんな状況なのだから、他の職種ではもっと大変だろう)。

優秀な者を叩くことで僕たちはどんどん貧しくなっている

バランスの問題は承知の上で、成果を出したものを高く評価し、そうでないものを低く評価するそれが続けば処遇にも大きく影響する、それが僕は健全な社会であると思っている。

そして以前にも書いたことだけれど、能力のある人はその能力を用いて社会で活躍するだけでなく、その分責任や義務を負って社会に還元する(ノブレス・オブリージュ)ことが大事であると考えている。

現状の日本社会はこれと真逆である。

僕たちは犯人捜しを続け、ネットで晒し、ボコボコに叩き潰そうとしている。

それで皆が良くなるのであれば否定しないけれど、その成れの果てがこの30年以上に亘る停滞なのだ。

それを我々の世代からでも変えないか?

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

本文を書いていて思い出したのは、帰国子女が英語の授業で綺麗な発音で教科書を読んだ時の、教室の「あの空気」です。

僕たちはそれが「ホンモノ」であることを知りながら、そのように発音できない自分を恥ずかしく思いながら、その劣等感みたいなものを転換させて、他者に浴びせ、そいつを引き摺り下ろそうとするという、クソみたいなことをずっとやってきています。

生徒だけならまだしも、教師もグルになって。

そうやって溜飲を下げて、一時的な優越感に浸って、僕たちはホンモノを知ることなく、相対的にどんどんと貧しくなっています。

未開の村の未開の部族みたいな僕たち(こういう言い方はポリコレ的にマズいのだろう)。

それを手に届く範囲からだけでも変えませんか?

僕はそんな風に考えています。

仲間になって頂けたら幸いです。