女々しさはいらない

お山の大将

群れたがるマネージャーに嫌気がさしている。

徒党を組む、というか、お山の大将になりたがるというか、とにかく自分の党派(身内)みたいなものを作って、自らの威信を高めようとする感性が僕は好きではない。

もちろん自然とそうなるのは問題ない。

部下から慕われた結果、群れてしまった、というのは全く問題ない。

僕が嫌いなのは、権力を笠に、でもそうではないことを装って部下に無理強いする感じ、である。

今日のポイントはこのそうではないことを装って」という部分である。

ここに狡さというか、女々しさを感じる。

リスクを取らずにリターンだけを得ようとするさもしさ。

今日はそういう話をする。

(女々しさ、という言葉はポリコレに引っかかりそうな気もするけれど、他意はない。あくまでも常用的な意味合いで使っているだけである。それを理解しながら読み進めて頂きたい)

歪みはどこか別のところに生じている

僕はリスクとリターンは等価である、という考え方を持っている。

リターンを得ようとする時には、それ相応のリスクを負う必要がある。

これは何も投資の世界だけの話ではない。

そこに釣り合いがないのであれば、どこかに何らかの歪みが生じる。

今回の話であれば、その歪みは部下に押し付けられることになる訳である。

上司・部下という関係性は(残念ながら)続いてしまう

上司・部下という関係性において、部下が上司に対して、面と向かって「嫌です」と言える局面はそう多くはない。

もちろん限界値を超えたら話は別であるが、ある程度の範囲内であれば、我慢して付き合う、これが日本における大体の部下の心情と行動であると思う。

というか、その場で「嫌だ」と言ったところで、上司・部下関係はその後も続くので、単純に仕事がしづらくなるからそうせざるを得ない、というのが実態だと思う。

素晴らしき若人たち

若い人達と接していて感心するのは、この「つき合い方(あしらい方)」が非常に洗練している、ということである。

彼ら(彼女ら)は、相手に嫌な気持ちを微塵も悟られることなく、上手にこの局面を乗り切ることができる。

僕が若い頃であれば、口には出さないまでも露骨に嫌な顔をしていたような場面においても、彼ら(彼女ら)はとても感じ良くその場を演出できる。

舌を巻くくらいに。

Fuck off 昭和的連帯感

そしてそのシチュエーションを第三者的に観察していて思うのは、相手側(上司側)はそれに気が付いていないということである。

他山の石として、僕はこの場面からたくさんのことを学んでいる。

未だに昭和的連帯感、部活的上下関係、みたいなものを強要するマネージャーはとても多い。

「同じ釜の飯を食う」みたいな、「オレ達は仲間だよな」みたいなものでチームを運営しようとすること、それは確かに一つのマネジメントスタイルであって、僕がとやかく言うものではないのかもしれない。

でも、僕が思うのは、そこから外れた人(アウトサイダー)にはこのマネジメントスタイルというのはとても残酷であって、時代適合的ではない、ということである。

マチズモ? いやいや…

例えが適切ではないかもしれないけれど、中学生が連れションを友達に強要する、みたいな感じを覚えるのだ。

一緒に小便しなければ仲間ではない、みたいな空気感を思い出してしまうのである(これは社会人になってもタバコを一緒に吸いに行くみたいな形で維持されている)。

そして彼らはそれをマチズモだと思っているのだろうけれど、僕にはそれは女々しさとしか感じられないのである(この辺もポリコレ的には問題のある言い方であるが、他意はないのでご理解いただきたい。言葉というのは「正しさ」も重要であるけれど、「語感」というか、「強さ」というか、「体温」というか、そういうことも重要だと僕は思っている。)。

ウチらは仲間だしー(笑)

繰り返すようであるが、受け手がそれを望んでいるのであれば、僕に言うことは何もない。

そして、「外」の人間に対しても、同様かそれに近いマネジメントを行うのであれば、それも一つのやり方だろうとは思う。

でも、だ。

往々にして、このようなマネジメントスタイルを取る人というのは、「内」と「外」を分け、「外」に厳しく接することによって求心力を高めようとする。

排外主義、いじめの構造。

これはこのような女々しさから生じる(と僕は思っている)。

地下に潜った陰湿な奴ら

仲間がいないと立っていられない(仲間がいるとイキる)人が多すぎるように僕は感じている。

それは僕から見れば、自信のなさの現われに過ぎない。

パワハラというものが社会的に認知された結果、パワハラ的傾向を持った人達は地下に潜るようになった。

地下で陰湿にパワハラ型マネジメントを行うようになった。

目に見えない形でパワーを行使し、部下に強要するようになった。

彼らは「部下もそう望んでいるのですよ」という話型を取ることで、これを現代においても継続している。

リスクは負わず、リターンだけを得ようとしている。

そういう意味では、まだ昔のパワハラ型マネージャーの方が僕は好きである。

それ相応のリスクを負っている分だけ、彼らは捻じれていない。

でも現代のパワハラ型マネージャーは狡猾にそれを行っているから腹が立つのだ。

SNSいじめみたいな感じ。

仲間外れによる捻じ曲がった仲間意識。

本当に反吐が出る。

まあ価値観は人それぞれ

僕は誰にも好かれようと思っていない。

嫌われたくはないけれど、好かれたいとは思わない。

まあそれも価値観の違いに過ぎないのだろうけれど。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

社会というのは陰湿なところだな、と思うことが多いです。

僕はスーパードライな性格なので、別に他人からどう思われようがどうでもいいのですが、多くの人達はそうではなくて、でもだからこそ望まなくてもウェットな関係性を維持しなければならない、と考えているようです。

僕が言いたいのは、「そんなこともないよ」ということです。

僕は「教えない」のですが、「教えは請われ」ます。

僕は「近づかない」のですが、「近づかれ」ます。

幼稚な人間は盛んに距離を詰めようとしますが、僕はその反対です。

でも、何とかマネジメントという仕事はできています。

群れずにいきましょう。