劇団マネージャー

「演技」と「ガチ」

マネジメントという仕事は、自分が劇団員であるような気分でやると丁度いい。

そんなことを思いついたので、その勢いのまま1つの文章にしてしまおうと思っている。

これは突飛なように思えるけれど、そんなに的外れでもないような気がしている。

というのは、社会人というのは多かれ少なかれ「演技」の上に成り立っているものであるし、それはマネージャーという仕事においても同様、むしろそれ以上の演技が求められると考えるからである。

これを「ガチ」でやろうとするから、みんな悩むのである。

書き終えられるかの不安は残るけれど、取り敢えず始めていく。

本質は大事。でもそこまで深く付き合う部下は僅少。

マネジメントには人間性が重要である。

これは本当にそう思っていて、最後の最後にはその人の徳性というか、人となりみたいなものがしっかりしていなければ成り立たない仕事である。

ただ一方で、上司であるマネージャーの人間性をそこまで部下が見抜けるのかというと、そんなこともないのも事実である。

もちろん付き合いが長くなるにつれ、その本質を知るにつれ、その重要性が高まっていくのは間違いないのだけれど、当然ながらそこまで深く付き合う部下ばかりではないし、マネジメントというのはあくまでも「仕事」でしかない訳で、そこまで人間性を曝け出す必要もないのもまた事実なのだ。

そこで考えたのが役者としてのマネジメントである。

客観視する為、自己防衛する為の仮面

これは「仮面を被る」ということとほぼ同義である。

マネジメント業務においては、非情にならなければならない局面もあるし、言いたくないことだって言わなければならないことがある。

本来の人間性とは違う振る舞いを組織から求められることだってある。

その時に、「生身」の自分でぶつかると大怪我をする場合がある。

精神的に参ってしまうこともある。

だから一歩距離を取って、自分を客観視しながら、「これは演技としてのマネジメントなのだ」「課長という役を割り当てられているだけなのだ」と考えると良いと僕は考えている。

スーツを着て、仮面を被って

これは営業でも一緒である。

自分を俯瞰して見られるかどうか、というのは営業マンとして大成するかどうかの1つの目安となる。

生身の僕は営業に向いているとは全く思わないけれど、スーツを着て舞台に上がれば、それなりの演技をすることができるのである。

営業マンという役を演じることは、今の僕にはそんなに難しいことではない。

それと一緒である。

マネージャーという役を演じればいいのだ。

嫌われない<成果を上げる

以前にも書いたことだけれど、後輩のマネージャーから「部下に厳しいことを言えない」という悩みを相談されることがある。

生身のその人は確かにそうなのかもしれない。

でもマネージャーとしては厳しいことを言えないというのは結構ヤバいことである。

昨今では表立ったパワハラに対する取り締まりが厳しいので、みんなヘラヘラとマネジメントをしているけれど(それはそれで問題だと僕は思っている)、それとは話がちょっと異なる。

嫌われたくないからとか、いい顔したいからというのが大体の理由である。

もちろん僕だって部下に嫌われたくない。

嫌なこと言って、嫌な顔をされたくない。

でも、マネージャーにとって大事なことは部下に嫌われないことではなくて、成果を上げることである。

もちろん嫌われないで成果が上がるならそれに越したことはないけれど、任期中ずっと嫌われないということは起こりえない(と僕は思っている)ので、どうやったってこれを避けることはできないのだ。

人間性が漏れ出る。それでいいのでは?

その時に僕がするアドバイスが今回の内容である。

「自分はそういうタイプのマネージャーである」と振舞えばいいのだ。

そしてこのアドバイスのポイントは、どうやったって完璧な演技はできない、ということに繋がる。

大根役者である僕たちは、どんなに厳しいマネージャーを装ったって、そうは成り切れない。

元々の人間性や甘さみたいなものが漏れ出てしまう。

それでいいのだと僕は思う。

僕はシリアスな演技を常々やっているつもりだけれど、やっているとそのうちコメディめいてしまう。

シリアスな自分を演じている状況が面白くなってしまう。

それを自分で茶化したくなってしまう。

結果として、劇団というよりはコント集団みたいになってしまう。

三流としての味わい

もちろん一流の役者のまま演じきれればそれはそれで素晴らしいことだ。

ただ、三流の役者でも味は出る。

そしてわざと三流っぽく振舞ったりもすることで、人間性も伝わっていく。

この使い分けがマネジメントを一段階上げるのである。

ガチは論外

僕は「ガチ」のマネージャーが苦手である。

「ガチ」というのは、「熱血教師」みたいなイメージで、人間と人間が心の底からぶつかれば必ず変わり合えるはずだ、という幻想を抱いている人達のことである。

僕はこの種のウェットなマネジメントを毛嫌いしている。

もうその時代は終わったのだ。

僕はあくまでも仕事としてマネージャーをしているに過ぎない。

それでも成果を上げることはできるし、部下を良い関係性を築くことはできる。

僕はまた下手な演出家の台本通りに演じながら、それでも高い成果を出し続けている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

演技とガチ。

これが最近の僕のテーマです。

「どうやら世の中には、演技をガチだと思っている人が一定数存在するようだ」

そんなことを最近になってようやく気付きました。

人生(仕事でも愛でも平和でも勇気でも何でも置き換え可)は虚構の上に立っています。

でもそれを虚構であると理解しているのと、そうでないのでは大きな違いがあります。

そして残念ながらガチの人は本当にガチでそう信じているようです。

僕はその度に虚しさに絶望しそうになります。

フィクション(その中でもコメディ)が力を与えるのはそれが虚構であり、それを僕たちが虚構だと知っているからです。

それでも僕らはそこに何かしらの希望を見出すのです(見出したいと願うのです)。

それがわからない人とは美味い酒が飲めそうにありません。

平行線のまま、分かり合えないまま、暮らしていきましょう。