二重思考とマネジメント

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二重思考には自己懐疑がない

ジョージ・オーウェルの小説「1984」には、「二重思考(ダブルシンク)」というものが中核概念として出てくる。

これは「本心から信じながらも意図的に嘘をつくこと、都合が悪くなったあらゆる事実を忘却すること、そしてそれらの事実が再び必要になった時には必要な期間だけ忘却の彼方から呼び起こすこと」と説明されている。

要は、自分の都合が良いように事実を忘れたり思い出したりできる能力(それも本心からのことである。

オーウェルが卓見だと思うのは、この「本心から」という部分であると僕は思っている。

これは偽善自己欺瞞とは異なる。

偽善や自己欺瞞には自意識があり、懐疑がある。

でも二重思考にはそれがない

そしてそれは現代日本社会を言い当てているように思えるのだ。

今日はそんな話をしていく。

優秀、でもどこか欠落した人達

マネジメントという仕事をして数年もすると、組織内部の偉い人達と関わりを持つことが増えてくる。

彼ら(彼女ら)は一様に優秀である。

でも、どこか欠落している。

僕はそんな風に感じるのだ。

ガチで言い切れる怖さ

それは一言でいうと、「ガチ感」である。

彼ら(彼女ら)は現在自分が言っていることと、過去言ったことが矛盾していたとしても、それを本気で矛盾していないと言い切ることができる。

それも意識せずに。

ここに僕は何度も驚愕したものである。

その時にはその違和感がどこから生じるのかわからなかったのだけれど、久しぶりに「1984」を読んだ時に、「ああこれのことか…」と思ったので今日はそれを文章にしている訳である。

本心から記憶をデリートできる

政治のことを持ち出すまでもなく、現代日本ではこのような振る舞いが当然のものとして見られている(ような気がする)。

政治におけるテンプレとして、古くには「記憶にございません」という言い回しがあったけれど、この話はそれとは異なるものだと僕は思っている。

この「記憶にございません」と発言している当人には「記憶がある」のだ。

そしてそれが「マズいこと」であるという「自覚」があるのだ。

ただ、現代日本にはそれがない。

本気で、ガチで、記憶をなくすことができるのである。

そこには葛藤も自己矛盾もない。

本心から記憶を抹消することができるのである。

間違いは起きる(それがどうした?)

これが組織内部でミドルマネージャーをやることを一層困難なものにしている。

僕は人間が仕事をする以上、間違いというものは一定確率で起こるものだと思っている。

それは確率論みたいなもので、ある種所与のものである。

ただ間違いが起きた時には(起こした時には)、それを認め、謝罪し、次に向かう必要があるとも思っている。

これは間違いについてくどくどと文句を言うためではない。

ただ、一旦区切りをつけて、次に進むための儀式みたいなものだ。

そうやって僕たちは仕事をアップデートしていく。

間違っていると思うのが間違っている?(小泉構文?)

ただ、二重思考を持つ者たちは、それが間違いではないと本気で思っているので、このアップデートの作業ができないのである。

別に「責任を取れ!」とか「非を認めろ!」とかそういうことを言いたい訳ではない。

そんなことはどうでもいい。

ただ、僕は単純に次へ進みたいだけなのだ。

それが本心から間違っていない、間違っていると思うのはお前の思考形態がおかしいのだ、というようなロジックに置き換えられてしまうと、僕らはそこに留まらざるを得なくなってしまう。

この「間違っていると思うのが間違っている」、というような言い回しを僕は詭弁だと思う。

というか、詭弁だという自覚があればまだマシなのだ。

それがないことが問題なのである。

無謬性の原則

これは以前にも書いた「無謬性の原則」にも繋がってくる。

信じれば叶う、思いが足りないから叶わない、と言ったような思考形態を僕たちは敗戦後もずっと続けている。

もうそれをやめないか?

僕はそう思っている。

無駄な努力? わかっている

この国に必要なのはマネジメントの変革だ。

僕はそう思ってこのブログを書いている。

もちろん僕個人の力で何かが変わるわけではない。

大きな枠組みや二重思考の圧力に抗えるはずもない。

でも、だからと言って、何もしないわけにはいかないのだ。

座して死を待つことはできない。

批判だけして行動しない人にはなりたくない。

僕は「それでも」という言葉が好きだ

僕はささやかなテリトリーで、小さな世界で、今よりも少しだけ快適に働ける環境を作りたいと思っている。

もちろんそんなものは幻想に過ぎないのかもしれない。

ビックブラザーの手の中で、テレスクリーンに洗脳された、ニュースピークの戯言に過ぎないのかもしれない。

それでも、である。

ディストピア? 上等じゃないか?

僕は自己矛盾を抱えながら、それを吐露しながら、仕事をしていきたいと思っている。

都合よく記憶を消したり、それを呼び戻したりすることなく、自己嫌悪を背負いながら歩いて行きたいと思っている。

それによって被るものを受け止めながら、それでも前を向いていきたいのだ。

倒れてないだけ、かもしれなくても。

僕たちが生きるこの世界は間違いなくディストピアだ。

それに加担することは簡単だ。

でもそれに抗って僕は仕事をしていきたいと思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

僕たちは平成のどこかの時点で、知性というものを履き違えてしまった。

そしてそのまま歩き続けている。

僕はそんな風に考えています。

他者を排撃し合い、皆で貧しくなっていくことに暗い快感を覚える僕たちは、破滅への道を間違いなく辿っています。

それに抗うことはきっと不可能なのでしょう。

でも、自分がマネジメントする小さなチームくらいなら、それができるはずです。

ゲリラ的に、パルチザン的に、戦っていきましょう。