否定から入らない
反射的に否定してしまう人達
世間一般で「頭が良い」人というのは、どちらかというと否定から入る傾向がある、と僕は思っている。
そこに同語反復的な面がないとは言い切れないが(否定的であるというのは物事を違う側面から見ているという印象を与えやすく、頭が切れると思われやすい)、色々な人と仕事をしていく中で僕はそんな風に感じている。
僕自身も「否定的な物事の見方」というのは好きな方で、東京的な笑い(皮肉)を混ぜ込めるとブラックユーモアにも転じるので、上手に活用することは仕事上で役に立つと言えなくもない。
ただ、「ガチ」で思っているのであれば、要注意である。
もっと言うと、反射的に否定しまうようであれば(本人は無自覚なのだろうが)、改善が必要となる。
今日はそんなことを話していく。
諦めたらそこで試合終了ですよ?
以前部下から、「課長は仙人みたいですね。明らかに理不尽なことにも怒らないし。僕だったら絶対に許せないですよ」と言われて、自分でもびっくりしたことがある。
僕は昔から血の気が多い方で、すぐにカッとなるし、イライラもするし、「売られたケンカは買いますよ」的なスタンスでずっと仕事をしてきたので、ある部下からは今そのように見えているということを聞いて、「それってオレのことなのかな? 逆の意味(嫌味)で言っていないよね…」と思ったくらい驚いたのである。
これはトレーニングの成果と言えば聞こえはいいけれど、単純に「諦めた」からそのようになった、というのが正しい理由であると思う。
僕は期待することをやめてから、あまりイライラしなくなった。
それは必ずしも良いこととは限らないけれど、マネージャーという仕事を進めていく為には(自分が壊れずに)、必要なことであると思っている。
そして、その心の平静によって、僕は大体のことを受け入れられるようになったのだ。
諦めによるポジティブな側面
会社で働くというのは、理不尽と上手くやっていくということと同義で、その対応の仕方は人それぞれであると思う。
僕の場合はそれが「諦め」であっただけである。
でも、それによって「否定から入らない」ようにすることができるようになったのだ。
物事は多面的。本当の意味で理解してる?
物事というのは多面的で、同じ事象を見ていても受け止め方は千差万別である。
そんなの当たり前の話だと思うかもしれない。
でも、マネージャーとして仕事をしていると、もっと真に迫った話として、身に染みて感じるのだ。
それぞれの世界線
例えば朝会で何か発言をしたとする。
部下がたくさんいて、その前で話をするとする。
同じ言葉、同じ表情、同じ空気感を共有しているはずだ。
でも、受け止め方はそれぞれ異なる。
それもびっくりするくらいの差で。
事実と真実は異なる
もうマネージャー経験も長いので、そのことに驚くことはなくなったけれど、このような種類の経験をたくさん経たことで、僕は物事というのは本当に様々な側面を持つのだ、ということを感じるようになった。
よく言われる話かもしれないけれど、「事実と真実は異なる」という話のミニチュア版が日々繰り広げられている、そんな感じである。
そしてそこに他意や悪意はないのだ。
受容体の違い、というか、スペクトルの受け止め方の違い、というか。
とにかく様々な人に様々な「世界」があるのである。
研究対象として捉える
彼(彼女)にとっては、それが全てで、正しくて、他のことは間違っていると思ってしまう、結果として否定から入ってしまう、そんなことを僕は感じる。
僕は別に心が広いとか、人間ができているとか、そういうことではなくて、そのような世界観を持っているので、あらゆる人があらゆること(その中には頓珍漢なことも多い)を言ってくることを、比較的フラットに受け止めることができる。
別に嫌味でも何でもなく、「そういう考え方(受け止め方)もあるのか」と研究対象として捉えることができる。
ここが僕がマネージャーを続けられている理由かもしれない。
ガチの否定は危険
正しさというのは相対的なもので、t軸(時間軸)も含めて考えると、それは変化していくものだ、だから絶対善なんてことはあり得ない、というのが僕の世界の捉え方である。
それは否定から入るとしっぺ返しを食らう可能性がある、ということに対する「保険」とも言えるかもしれない。
特に現代のような環境においては、何が正解で何が不正解か(これは哲学的な話だけでなく、マーケットという話に限っても明らかだと思う)なんてわからないので、「ガチの否定」はやめておいた方が賢明であるような気がしている。
「多様性の担保は1人でするものではなく、チーム単位ですればいい。それぞれの人がいるだけで、思考も異なるので、勝手に多様性が担保されるのだ」
僕はそんな風に考えている。
アジア的な世界観
二元論的な世界観を持っている人には、僕のような考え方はどっちつかずというか、まどろっこしく感じられるのかもしれない。
「善と悪」みたいに世界を二分した方が、物事は分かり易く、捉え易い。
でも、僕は「清濁併せ吞む」みたいな考え方の方が好みであるし、わかり易さなんていらないのだ、とも思っている。
できない理由はたくさんあるし、否定から入るのは頭良さそうに見える。
でも、それでは前に進めないのだ。
受容して、包摂して、対案を出そう。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
快刀乱麻、みたいなものを皆が求めているような気がしています。
物事を分かり易く解説して、バッサリと切り捨ててしまう。
でも、僕はその切り捨てられた残りカスの方に興味があります。
多様性を許容する世界は、許容しようと努力している世界は、はっきり言って面倒くさいので、「何でそんなまどろこっしいことせなあかんねん!」というカウンターが生まれがちなのですが、それこそがファシズム的なものに繋がってしまう可能性が高いと僕は思っています。
ポリコレは論外ですが、よくわからないものをよくわからないまま楽しめる余裕を持っていきましょう。