ポジキャンインフレに気をつけろ

UnsplashJuliana Maltaが撮影した写真

ポジティブ・キャンペーン・インフレーション

以前「無謬性の原則と日本社会」で書いたように、日本社会において失敗を事前に想定することはタブー視されている。

ネガティブなことは言ってはいけない、みたいな空気が会議室には充満している。

反面、成功したトピックについては過剰に演出されることが多いような気がする。

議題には各部署からたくさんのTips成功事例が盛り込まれ、さも当社がとてつもなく成功しているかのような印象を与える。

実際はそんなことないのに。

このネガティブ禁止・ポジティブ礼賛の傾向が僕たちの仕事から活力を奪っているのでは?

もっと言うと、ポジティブな話はどんどんとインフレが進んで、実態からかけ離れたものになっている(ポジティブ・キャンペーン・インフレーション)、僕たちはそれに気づいているのだけれど、気づいていないフリをしなければならないその乖離が僕たちをウンザリさせるのでは?

今日はそんなことを書いていく。

現状分析は当然。そうだろう?

マネジメントという仕事において、「現状分析」は必須科目であると僕は考えている。

現在がどのような状態なのかを、良い面悪い面関係なく、フラットな状態で見極めること。

そこからマネジメントは始まる。

というか、それをしなければ足元が固まらないから、打とうとする施策が的外れになってしまう可能性が高まってしまうのである。

だから、当然、やる。

異論がある人はいないだろう。

でも、日本社会においては、これが普通の話として通らないのだ。

現状分析=組織のポジティブな面を多めに探すこと

「現状分析をする=ネガティブなことを見つける=組織の粗探しをする=忠誠心が低い奴=反体制派」みたいな、謎の思考回路を辿っていくことが繰り返されるうちに(そしてその過程でそれなりの傷を負っていくうちにだんだんと意欲が削がれ)、現状分析という言葉は、組織のポジティブな面を多めに探す、という意味合いにすり替えられていく。

良いことは多めに、悪いことは少なめに。

それも悪いことはオブラートに包んで、できるだけクリティカルなものに聞こえないように。

それがデフォルトになっている。

ポジティブしかない現在

各部署がそのような姿勢の下に「現状分析」を行うので、その合計値である会議の議題の中身は、「ポジティブ9割、ネガティブ1割」みたいな感じに収斂していく。

繰り返すが、これは「現状分析」において、である。

未来の話、将来の明るい展望、ではない。

それなのに、これが出発点となるのだ。

もう既におかしいだろう?

でも、これが当たり前の話として通っているのだ。

「すべらない話」みたいだ

各部署には各部署間での競争がある。

それはまあ組織の性質上、仕方のないことである。

だから会議の中で自部署の良い点をアピールしていく。

これもまあいいだろう。

ただ、他部署に負けまいという気持ちがあまりにも強くなりすぎると、話がどんどんと「盛られて」行ってしまう。

芸人たちのエピソード・トークのように、1の事象が10くらいのボリュームを伴って報告されるようになる。

すべての事例がとてつもなく良いものになっていく。

バラ色の会社。

でも現実は?

現状と幻状

この種の大政翼賛会的な会議が何の疑問も持たれずに遂行されていく。

いや、個人個人では、「何かおかしいぞ?」とは思っているのだ。

でも、それを口にすることは憚られるので、みんな黙ってその演目に参加し、気付かないという演技を続けていく。

僕たちはみな共犯者だ。

そしてその共犯関係によって生まれるのが、現状とはあまりにも乖離した「幻状」なのである。

耳触りの良いものを多く、耳障りなものを少なく。

誰しもそのようにありたいと思う(それを願う)ものだろう。

その性向は否定しない。

でもさ、というのが今日の話である。

それをわかっているという虚しさ

遊離した大言壮語。

地に足のついていない妄言。

何よりもそれを僕たち自身が妄言であることに気づいてしまっているというこの現状。

それが僕たちを冷めさせる。

仕事をやりがいのないものにしている。

僕はそう思うのだ。

ブルシットジョブを敢えて強化する必要はないのでは?

仕事にやりがいを持たせる、それは現代ではとても難しいことなのかもしれない。

ブルシットジョブ(クソ仕事)はそこら中に溢れているから。

世界中でそれは避けられないことなのかもしれない。

でも、敢えてそれを強化する必要はないのではないだろうか?

演技がガチに

日本社会における虚しさの正体(の一端)。

それは僕たちが集団で3流の演技をしていることに気づいているからだ。

というか、かつては演技であると思っていたのだけれど、あまりにもそれを日常的に続けるうちにその演技が体に染みついてしまって、どちらが演技かどちらが本気かわからなくなってしまっている所に、この話の根深さがあるように思う。

演技がガチになっているというか。

それをやらなければ、(認知的不協和に耐えられず)自己が崩壊するというか。

ポジティブなことを言うのはいい。

でもそれは現実に即しているべきだ。

そして現実に即するというのは、ネガティブなこともありのままに報告することでもある。

プラスを昂進させるよりも、マイナスの排除を。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

ポジティブなことを言わなければならない局面や立場がある、ということは僕のような人間だってわかります。

でも、それは演技だという自覚を持ちながら行って欲しい。

それが今回僕が言いたかったことです。

演技がガチになったら、終わりです。

それも集団でそうなったら、末期症状です。

そういう意味では、僕たちは過去からずっと末期症状なのかもしれません。

投薬を。

もしくは死を。