日本社会における閉塞感の正体

UnsplashMario Azziが撮影した写真

掴みどころのない閉塞感

ぼんやりとしたどん詰まり感を感じている。

ぼんやりというのは何か具体的な対象があるわけではなくて、感覚的かつ抽象的な先の見えなさがあって、それに苛まれている。

苛まれている、というのは大袈裟か。

ただ何となくの不安と虚しさを感じている。

この掴みどころのない閉塞感が僕たちの仕事からやりがいを奪っているのでは?

いや、閉塞感が打破されたとして、やりがいなんて生まれないか?

わからない。

ただ、その閉塞感の正体を書いてみようというのが今回の試みである。

どこまで書けるかわからないけれど、取り敢えず始めてみよう。

どこにモチベーションを見出したらいいのかがわからない

マネジメントという仕事をしていて、モチベーションの源泉がないことにハッとすることがある。

ちょっと前までは、年功序列というか、会社に奉公していれば自分の処遇も上がって、生活も豊かになって、自尊心も満たされる、みたいな「日本的ステレオタイプ成功モデル」が機能していたように思うのだけれど、それがもうフリでも機能しなくなって、どこにモチベーションを見出したらいいのかわからない人が増えているように感じている。

もちろんそこには僕自身も含まれている。

仕事とは何か?

ぜ仕事をしなければならないのか?

衣食住、基本的な生活水準が満たされていないなら、そんなことを言っている場合ではないだろう。

ただ食うために働く。

それはそれでとてもシンプルだし、力強い。

というか、そんなことを言っている時点で、僕は恵まれているのだろう。

いや、でも、そういうことを言いたいわけではないのだ。

恵まれているとか恵まれていないとか、そういう議論をしたいわけではないのだ。

余計なマウンティングは不要。

ただ、このどうしようもなさの正体を知りたいだけなのだ。

経済成長を前提としたシステムが現在の状況と合わなくなってきている

日本社会における閉塞感の原因。

色々なことが言われている。

その中でも経済成長しなくなったのが主因であると言われることがある。

もう少し正確に言うと、経済成長を前提とした日本的雇用環境が現在の状況と合わなくなってきたことが主因である、言われることがある。

新卒一括採用職能給年功賃金OJT終身雇用制度

そこまでかっちりしたものではなくても、大体の企業は大なり小なりこれらの制度をベースとして運営を行っているはずだ。

そしてそれはちょっと前までは日本企業の強さにもなっていた。

もちろん現在でも社会の安定に大きく寄与している制度である。

でも、それが現在の閉塞感の原因になっている。

じゃあどうしたらいいんだ?

ジョブ型雇用へ移行するには未整備のものが多すぎる?

成果主義的な発想。

欧米(特にアメリカ型)のようなジョブ型雇用への移行。

まあ議論の方向性としては間違っていないのだろう。

でも、中途採用市場は未だ未整備だし、公的な職業訓練制度なんて機能していないし、社会保障制度だって企業を前提としたものに留まっているし。

そんな中でドラスティックに移行なんてできるはずもない。

個として尊重されることは素晴らしいのか?

そしたら、段階的な移行だ。

漸進的にいこう。

副業を認め、兼業を容認し、業務委託契約も結ぼう。

採用も柔軟に行い、働く場所も選べるようにし、リモートワークも拡充しよう。

僕たちは「個」として尊重され、会社と対等な立場で仕事を進めていけるようになる。

自分の裁量で仕事量を決め、仕事環境を選び、自由に働くことができるようになる。

なんて素晴らしい。

…。

なんて素晴らしい、か?

悪くはない、というか十分、でももう少し

いや、別に斜に構えているわけではないのだ。

というか、方向性としては賛成しているのだ。

でも、それだけで現在のような閉塞感が打破できるとは思えないのである。

もちろん、現状よりはマシになると思う。

それで十分だとも思う。

ただ、もう少し、というのがここからの話である。

それを書いて今回の話を終えようと思う。

日本社会における閉塞感の正体は「ポーズ」だ

僕が思う日本社会における閉塞感の正体は、「ポーズ」である。

ここで言う「ポーズ」というのは、本質的なものを隠して、さも上手くワークしているかの印象を与えること(でもそこに参画している誰しもがそれがワークしているとは微塵も思っていないことを指す。

お化粧というか、それっぽさというか、雰囲気というか。

上手に自分の任期をやりおおせるための悪意なき偽装というか。

そこにある絶望的なダサさと、しょうもなさ。

そしてそれに気づいていても、気づいていないフリをしなければいけない共同性みたいなもの。

それが日本社会の閉塞感の正体である。

僕たちは気づいている。でも、気づいていないフリをしなければならない

僕たちは馬鹿じゃない。

それがポーズであることなんてわかっている。

でも、そう振舞わなければならない。

なぜなら、僕たちには生活があるから。

それをしないと、生活を守ることが難しくなる可能性があるから。

だから、僕たちは見てみないフリをする。

自分すらを騙そうとする。

でも、体は正直で、そのような欺瞞の塊みたいなものは、僕たちの心を確実に蝕んでいく。

それがこの虚しさの正体だ。

部下に強制する量を減らせないか?

マネジメントという仕事はそれを更に増幅させる可能性がある。

自分だけならいざ知らず、それを部下に求めることだってある。

というか、殆どがそうだ。

それをやめないか?

やめられなくても、少しでも減らさないか?

それが僕からの提案である。

微かな光で十分

まっとうな仕事。

まともな仕事。

いい仕事とまでは言えなくても、満足感のある仕事。

それをやろう。

そうすれば、この閉塞感に風穴を開けることができるはずだ。

ピンホールから漏れる光。

それで十分だ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

日本型雇用システムのアンマッチと、それを騙し騙し運用しなければならない困難性、そこから生じるポーズ

それらの混合物が日本社会における閉塞感の正体です。

その中で僕たちができることは、フルコミットしなければならないという強迫観念からの脱出なのではないか?

僕はそんなことを考えています(それについてはまたどこかで書こうと思っています)。

現在の方向性もそうだと思いますが、「本業」と呼ばれるものを持ちながら、フラフラとそこからはみ出すような働き方、その累計、みたいなものが僕たちにやりがいをもたらす可能性があるように考えています。

いい仕事をする為には、フルコミットメントしなければならない現在のような状況では難しい。

それならそれを緩めたらいいのでは?

それが僕の(現在のところの)アイディアです。

何とかこの閉塞感を打破していきましょう。