空疎な言葉を使うのはもうやめよう
建前を建前としてわかるように話す
マネージャーを含め、リーダーと呼ばれる人たちは様々な機会に発言を求められる。
例えばチームをモチベートさせる為に簡単な会議を開くとする。
その際にマネージャーは会議の目的とか、これからやらなければならないこととか、理念とか、そう言ったことを話す。
そこにはある種の「きれいごと」も含まれる。というか、そういうことも言わなくてはならない場面もある。
本心だけではなく、建前の部分も話さなくてはならない場合がある。
その際に重要なことは「建前は建前としてわかるように話す」ことだ。
言葉が体から離れオウムと化す
もう少し詳しく説明する。
組織として活動している以上、「やらなくてはならないこと」というのは時に現実から大きく乖離する場合がある。
わかりやすく言うと、どうやっても達成できそうにない目標に対して、「達成できる! 達成しよう!」と言わなければならない。
本心ではマネージャーも「いや、これは厳しいよな…」と思っている。
でも会議の性質上、それは禁句だ。
マネージャーはチームの皆をモチベートしなくてはならないからだ。
これを繰り返していくと、段々とマネージャーから言葉が離れていく。
マネージャーが発する言葉が重さを失っていって、空言と化す。
ただ上から言われたことを反復するだけのオウムとなる。
これは自分で気を付けていてもなかなか防ぐことができない。
何というか、マネージャーは組織側の人間になってしまって、それを部下に徹底することが主要な仕事だと勘違いをするようになる。
マネージャーと部下は対立概念のようなもので、命令する側と命令される側というような思い違いをするようになる。
空言を言っていてもいいのだ、空言を言うのがオレの仕事なのだ、と思うようになる。
こうなると部下の心は確実に離れていく。
「上司ごっこ・部下ごっこ・仕事ごっこ」が飛び交う空中戦
部下に対する言動と、上司に対する言動が違うと更に悪いことになる。
俗に言う二枚舌というやつだ。
そして部下には相変わらず同じ調子のまま。
ニュアンスが難しいのだけれど、これをマネージャーの仕事だと思っている人はとても多いと思う。
自分はある種部下とは違う存在で、目標も当然部下がやるもので、オレはそのケツを叩く役割だ、みたいな感じのマネージャーだ。
こういう人の部下は面従腹背というか、俗に言う死んだ目をしていることが多い。
とりあえず聞いておけばいいんでしょ、みたいな態度を取ることが多い。
そこで行われるのは「上司部下ごっこ」で、誰もかれもが他人の言っていることを信頼していない。
空疎な言葉がただ飛び交っているだけ。
そして自分の言っていることすら信じていないから、行動も乖離していく。
そうなると、「仕事ごっこ」が蔓延するようになる。
ただ仕事している風な状態が常態化していく。
みんな勤務時間にそこにいるのだけれど、魂は入っていなくて、ただぼんやりとやり過ごしている。
上司が怒鳴っていても、部下は聞き流しているし、他の部下も「またやってるよ」みたいな感じで冷ややかに見ている。
怒鳴っている上司自身もそれがポーズであることをわかっていて、自分の上司に怒っている自分をアピールするために、それを行っている。
何というか、全てが空中戦となる。
地に足が着いていないものになる。
マネージャーの仕事は「言葉を地面に下ろすこと」
もちろんマネージャーといっても中間管理職なので、できることは限られている。
でも僕はそこにこそマネージャーの役割があると思うのだ。
建前は建前として言わなければならないけれど、そこに自分の意思を込めなければ、本当にマネージャーはいらなくなる。
そんなロボットはただのコストでしかなくなるからだ。
だから自分の上司から空疎な目標や言葉が下りてきた場合には、まずそれをマネージャー自身が咀嚼して自分の言葉に言い換えることが大切だ。
反復するのではなく、自分はどう思うか、をそこに混ぜ込む。
それは空疎な言葉に対する意思の表明だ。
そこに重みを加えて、地面に下ろす行為だ。
もちろん組織上、現実的でないことを言わなければならない、やらなければならない局面、はある。
でもマネージャーがそれに対してどのように考えているか、ということを言語化するのはとても重要だ。
それは反発とか反逆とか不満とかそういったものではない。
もっと建設的なものだ。
その無理難題をマネージャーがどうやって受け止めているかという所信表明だ。
チームのメンバーにおもねるということではなく、自分もその無理難題に含まれていて、同じような空虚感を抱えていて、それでもこれをやらなければならないから、どうやったらできるのかを考えている、悩んでいる、ということを話すことがとても大切だ。
心を殺す職場
人間はバカではないから、欺瞞は確実に見抜く。
でも仕事だから欺瞞でもやらなくてはならないと思っている。
空疎な上司でも表面上は従わなければならないと思っている。
でもそこには献身という言葉はない。
必要最小限の仕事だけやっていればよいという態度、みんな口ではカッコいいこと言っているけれど、ものすごく冷めた雰囲気が生まれる。
むしろ職場というのはそれがデフォルトだと思っている。
他人など信じるに値しないし、上司なんて論外だ。
心を殺して、畜生のごとく苦役をするしかない。
それがたぶん「社畜」という言葉に繋がるのだろう。
空疎な言葉に魂を込める
僕はこの言説にNoと言いたい。
というか、死ぬほどそういう雰囲気がわかるから、そうでない職場を作りたいと思っている。
それにはマネージャーがまず変わらなければならないのだ。
空疎な言葉に魂を込めなければならないのだ。
だからと言って仕事は素晴らしいとか、そこで自己実現ができるとか、そんなことは微塵も思っていない。
それも反対の極の空疎な言葉だ。
やりがいとか生きがいとか、そんな甘い言葉で搾取している会社なんていくらでもあるからだ。
僕はもっと冷めている。
仕事というのは「生活費を稼ぐ手段」であり、対等な関係として「労働力を提供しているだけ」だ。
昭和的な「社員はみな家族だ」みたいなウェットな雰囲気も大嫌いだ。
だからと言って「仕事は仕事に過ぎない」というのも違うような気がしている。
ただ「こなすだけ」というのも違うような気がしている。
上手く言えないけれど、「会社はアホなことばかり言っているし、嫌なことばかりあるけれど、時には楽しい時もあるし、一生懸命やった時には充実感があることも事実なんだよな。でもだからといって、みんなそれぞれ価値観は違うから、プロフェッショナルとしてやってくれればいいし、必要以上に仲良くする必要はないし、一体感なんて別にいらないし、程々の距離感で好きにやってくれればいいよ。それでもチームとしての達成感が生まれる時があるから不思議だし、でもグチグチ文句言っていることもあるし、とりあえず明日会社に行きたくなくならない程度の関係性があればいいんじゃない?」というのが僕のスタンスだ。
こういうことをマネージャーが認識していること、多元的で複雑な人間でいることを良しとすること、を折に触れて表現することが大事だと思う。
薄っぺらにならないように、言葉に力を込める。
マネージャーの仕事なんてそれだけなんじゃないか、と最近は思っている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
編集後記
「言葉を地面に下ろす行為」は時に反動的だと受け取られるようです。
何というか「高揚感を冷めさせる空気を読めないヤツ」というレッテルを貼られます。
本当にチームなり会社が高揚しているのであれば良いのですが、そうでない場合、その言葉達はただの空疎なスローガンの寄せ集めでしかありません。
悲しいかな、その言葉を誰も信じていない。だからとてもフワフワとしている。
強い同調圧力の中で「王様は裸だ」と叫ぶのはとても勇気のいる行為です。
でもそれをやらなければ、だんだんと仕事と自分が乖離していきます。
別人格を纏うことなく、地に足をつけて、今日も仕事をしていきましょう。